ブラッドリー『論理学』32
§34.もし現象ということで知覚する事物、あるいは我々に与えられる事実やあらわれを意味するならば、地平線の向こうにある英国全体(アメリカとアジアは言うまでもなく)、過去と未来の出来事のすべては現象では<ない>ことになる。それらは知覚される事実ではない。我々の心のなかに単なる観念として、シンボルの意味として存在するものである。繰り返すが、過去や未来の現象とはまったくの自己矛盾である。「現象の系列」であるとか、「知覚の連続」であるとか、その他どんなものでも、掌中にそうした事実を握っているかのように語る習慣をやめるべきときにきている。どちらかにすべきである。つまり、現象は観念的で、シンボルの内容であって、現前の知覚に直接に関わるものではないか、あるいは、私がいまここで知覚するもの以外に現象は存在しない、とするかである。「分析」の哲学や「経験」の学派に抵抗して、事実に訴えかけても多分無駄なことである。これらの名称を結びつけ、適切な名称を得ることに失敗した者に第一のものは無視し、第二のものについては間違っていると納得させるのは不可能であることは私も知っている。おびただしい異議と名称のないものへの嫉妬はあまり正確すぎないものに務めを見いだしており、それは昔から安上がりに落ちつこうとする者を満足させてきた。しかし、それ以外の人たちのために、もう一度繰り返しておこう。もし事実や出来事が感じられた、あるいは知覚されたものなら、過去の事実は単なる無意味なものとなる(第二巻第二部第一章参照)。
もちろん、過去の出来事はすべて実際にそこにあり、そこにあったものとして記憶されている、そして、未来はそこにあるものとして予期されている、と言うのがたやすいことは知っている。しかし、我々の心の外側に、過去と未来の事実の系列が存在<する>と仮定すると、どうやってそれは心に入ることができるのか、という疑問が残る。望むなら、それは変化が好きで、身体のなかや外を歩き回り、そこで落ち合ったり交流したりするのだと言うこともできる。あるいは、全能の創造主が心に驚くべき器官を与え、それは誰にも理解されないようなことを永久にすることができ、分析者の狡猾な技術をものともしないことで、魂の不滅を証明する。あるいは、「最終的な不可解さ」に答えを見いだすこともできよう。究極的な事実とは常に不可解で、もしそれが真でなければならない教義と矛盾しているとしても我々はそれを放り出すべきではない。というのも、不可解なものが不可解に振る舞うのはごく自然だからである。
しかし、多分、我々と同じレベルに満足してとどまる読者もいることだろう。もしそうなら、事実が我々にもたらす結論を信じ続けることだろう。その結論とは、過去と未来の出来事、知覚されていないすべての事物は、<我々にとっては>、現在の知覚にあらわれる実在と、性質の同一性を巡る推論によって結びつけられた観念的構築物としてのみ存在する、ということである。自律した存在をもつ事物が(もっているとして)どんな性格であるかは形而上学に関する問題である。
§35.かくして、総合判断は単なる形容であることをやめ、唯一無比の現前にあらわれる実在を間接的に指し示すことで唯一無比の出来事の系列を表現する。それらはこのあらわれの内容と推論によって結びつき、その限りで知覚と直接に関係している。しかし、観念は現前そのものへの形容として関係づけられることは決してない。そこに自らをあらわし、それを越えて拡がる実在に当てられる。我々の知覚の内容と観念的構築物の内容は、双方とも一つの実在についての形容である。両者とも異なった仕方でやってくるあらわれで、(我々の仮定が間違っていないなら)両者とも妥当で、実在の世界の真である。