トマス・ド・クインシー『スタイル』8

 かくして、フランス人作家には、どんなにその精神が異なっていようと、主題が異なっていようと、文の短さ、素早さ、そっけなさが見いだされる。パスカル、エルヴェシウス、コンディアック、ルソー、モンテスキューヴォルテール、ビュフォン、デュクロ、みな揃って簡潔で、明快で、文が短い。外国からの大きな影響を受けているミラボーシャトーブリアンでさえ、この点においては生国の範例を受け継いでいる。雄弁の拡散性と豊かさをある種の制度として弁護したボシュエやブルダローでさえ、この点において同国人より気ままなわけではない。すべての文において一つの上昇、一つの緩やかな下降、それがフランスの文章の法則である。単調なまでにそうである。かくして、長い複雑な文はフランス文学からは殆んど生み出されないし、スルタンならそれを見つけ出した男に自分の娘を嫁にやるだろう。さて、我々英国人はというと、文を大げさにまで長くする一般的傾向があるばかりでなく、一つの上昇に一つの下降、つまり<強音>と<弱音>がある代わりに多数のそれが見いだされる。流れと逆流、感情の高まりと韻律、それらが一つの文のうちに働く。現代の文章では、内的な地響きの後には逆巻く炎があり、一回の産みの苦しみでは物足らずに間歇的な痙攣が長い間続けられるのである。

 

 ある一つの失敗が巨大な悪を生むというのはそうしばしばあることではない。だが、そうしたことはあるし、このこともその一つである。この文章構造が巨大で包括的であるという一つの悪徳から生じる退屈さと反撥は我々自身にしばしば起こること、そして(我々はみなが感じていることを意識的に気づいているという違いがあるだけなのだが)しばしば他の者にも起こるに違いないことを明かす以上によく例示することはできない。夕方、我々が切に休みたいと感じるとき、明瞭で落ち着いた、容易に読み進めるような本が近くにあるというのは自然なことである。ちょうどそんな時、新鮮なニュースで滴りそうな新聞が来る。そこにはどんな扱われ方をされていようが興味を引きそうな議事録があって、その議題だけでも魅力的に感じられる。魅力は実に強く、刺激的なまでに関心を引く。だが結局我々は何度も新聞を置き、本のより緩やかな刺激に向かう。端的に言えば、我々はニュースは読むが、それが編集者からのものだろうと議会からの報告だろうと議論は読まなかったり後回しにする。なぜか。書かれているテーマのせいだとあなたは思うかもしれない。大きな政治的問題なので、あまりに扇動的なことがあるからだと。それは違う。そうしたことは魅力的なスタイルで扱われれば我慢できる。終わりのない文の迷宮のなか議論を追うのに必要な努力、労力、骨折りのためなのである。そこで我々は新聞を投げ出すか次の朝まで放っておくことになる。

 

 文章構造の感情に及ぼす影響に注目する習慣のない者、何週間もかかるようなたっぷりした読書の経験のない者は、専門的には<ペリオディック>[長文]なスタイルと呼ばれるものがもたらす紛れもない身体的消耗がどれほどのものか殆んど想像できないだろう。かくも注意力に重い負担をかけるのは、個別に考えた場合、長さαπεραντολογια、語のだらだらした流れでも、読み解くにも厄介な部分のなかに部分が含まれていく構造でもない。むしろ、αποδοσιξと呼ばれる文の始めに来るものがもたらす宙吊り状態が注意力をすり減らすのである。例えば「もし」で始まるような文章であり、多分そのあとに続く長々しい行に渡って繰り広げられる条件のもとなにかが肯定されるか否定される。ここではまだすべてが仮定的なので、なにも見落とせないし、観念をしっかり保ち続けていなければならない。すべてが宙吊りにされている。条件はそれがなにに依るのかわかるまでは十分には理解されない。複雑な仮定ではそれぞれの節に別々に注意を払わねばならないし、<それには>苦痛なまでの努力がなければまったくできないのである。というのも、宙吊りにされている仮定と各部分との関係をつけるために注意を前後に向けなければならないからである。実際、粗雑でいて人工的でもある新聞のスタイルではピリオドとピリオドの間には巨大なアーチがかかっており、最後近くにまで行かなければその要となるところも、首尾一貫性も得られないため、不運な読者はこの建築物のなかを非常に重い<荷>を負わされる。このアトラスのような仕事が繰り返されれば、忍耐もすぐにくじけてしまおうし、最後にはジャーナリストの議論は避けようとする感情、あるいは(よりありそうなことだが)完全に無視してしまう習慣ができることは即座に理解されよう。