ブラッドリー『論理学』34

 §38.ここで我々は多分、個的な(あるいは個別のと言ったほうがいいかもしれない)事実の観念と言うときなにを意味しているのかについて言うことができる。それを決して単一の出来事に限定されない人間の名前に見つけようとしても無駄であった。個別性という観念は二つの要素を含んでいる。まず、「これ性」という意味をもつ内容と、それに加えて実在を指し示す一般的な観念がある。別の言葉で言うと、個別なものとはまず系列においてあらわされる。それが第一の要素である。しかし、我々は「これ性」を越えはしない。系列の成員は系列のなかで相互に排除し合うことはないし、全体の集合は唯一無比ではない。個別な事実の完全な観念を得るためには、いわば、我々の系列を<外的に>相互排除し合うものとしてつくり、それによって個別的なものをつくらねばならない。そしてそれは、唯一無比の実在を指し示す観念によって意味づけることなしには成し遂げられない。

 

 もし我々が<実際に>系列を実在としたなら、欲していた観念だけでなく、それ以上のものを得ることになろう。我々の観念が事実において真であることが判断されよう。我々はそこまで望んではいなかったのだった。我々は唯一無比の観念を得たいと思っていたのであり、観念の実在を主張したのではない。

 

 既に見たように(§24)「これ」の観念には、実在との直接的な接触の観念があり、この観念を我々は我々の系列につけ加えなければならない。我々が系列を全体としてとともに、現前の点において実在と触れ合うものと考えるとき、それを真に個別的なものとして考えることになる。しかし、ここで我々は止まらなければならない。というのも、続けて我々の観念が真であると判断すると、我々は知覚を拡大する唯一無比の系列において特殊な場所を見いださねばならないからである。判断における別の内容のシンボルとして「これ」の観念を用いることが不可能なことは既に見た。しかしながら、判断を慎む限りにおいて、我々は「これ」を実際に現前しているもの以外の内容につけ加えることができる。

 

 これが個別という観念で我々の意味したところである。個的な人間の場合には事情が異なる。そこでは、個別な系列の内部に様々な限界線をもっているので、我々の観念は個別的である。しかし、それはまた出来事の変化を通じて変わらない真の同一性をもっている。それゆえ、単なる総合判断のクラスからは外れるのである。

 

 §39.唯一無比であることは、「これ」という観念の単なる否定的な側面である。種類(内容の観点から見た意味)が同じようであっても同一なものはないのが唯一無比で、その種類にたった一つしかない。唯一無比は系列の観念を含んでおり、相対的か絶対的かである。系列が他の要素を排除する要素を含み、それ自体は唯一無比では<ない>ときには相対的である。空想でどんな宇宙を作り上げたとしても、そこでの事物はその宇宙の内部においてのみ唯一無比となりうる。他方、系列が直接的な現前に関係しているときには絶対的な唯一無比を得る。この場合、系列内部の関係はそれが関わる諸要素を固定し、この系列にあらわれないものは事実ではあり得ないことになる。しかし、唯一無比という性格をもち、他のいかなる出来事をも排除する真の主語は、個別的な出来事そのものではないし、そう捉えるものでないことは記憶しておかねばならない。実在とは、むしろ、この個別的なものにあらわれ、他を排除するところのものである。我々がここで得るのは否定的な存在判断であるが、その性質については第三章で考えることにする。