トマス・ド・クインシー『スタイル』9

 さて、我々はこうした重要な点をフランスとの比較で見てきたので、今度は同じ点をドイツと比較して完全なものにしてみよう。比較の目的ではなく、それ自体を見ても、ドイツの散文の性格というのは十分驚きに値する対象である。我々の散文のスタイルの理想からすれば悪いものであり、実践上では嫌悪を催させるものであっても、そこに我々は最も法外な過剰を見る。放縦さへの熱狂によって意図的なバーレスクにも見え、ヘロデはヘロデ外のものに、スタンホルドはスタンホルド外のものである。レッシング、ヘルダー、パウルリヒテル、リヒテンベルグその他少数の例外はその生まれつきの性質によってか、外国の範例に適うよう訓練したためかドイツの散文につきまとう罪を免れている。才能において優れていてこのことに気づいたのなら避けずにはいられない。殆んどの作家の不運は、一度なにかの<物事>に関心をもち、議論されている<教義>に圧倒されてしまうと、もう彼らの見るところ比較的つまらない問題についてはまったく注意を向けなくなることにある。to docendum教えれる事柄は彼らの眼を教えることにつきものの不安から覆い隠し、消滅させさえする。不注意なスタイルがその権威によって多くのものを産むという一つの顕著な例があり、結果としてそれが怪物的とさえいえるものに達したとしても驚く必要はない。スタイルを無視してこうした点まで行き着いた万ほどの違反者がいるなかで、我々はイマニュエル・カントを選ぼう。それはある部分では彼の哲学の価値であり、また他の部分では非常に明晰で、考える習慣のある者なら特に専門家でなくとも理解可能であり、程なく彼は我々にとってごく自然なものとなるのは確かだろう。彼自身が考えていたわけではないが、彼の哲学の特殊な適用法があって、あえて予言すれば、神学生はカント哲学の主要な原理が明瞭に解釈されたときには大いに感謝することだろう。そのとき注意は彼のスタイルに向けられ、事実は証拠なしには信頼できるものではないということになろう。例えば、いま我々の眼の前にカントの主要な著作のすべてを扱っている信頼すべき出版社ハートノックの、海賊版ではない『実践理性批判』がある。それ故、テキストは正真正銘の本物であり、第四版であるので(リガ、一七九七年)著者による周到な見直しがなされているに違いない。我々に捜している時間はないが、たまたま開いた七〇,七一ページでは三十一行(各行はおよそ四十五から四十八文字である)の八折判丸々一ページにわたる一文がある。同じくらいの口径の、もっと大きな<銃口>をもつ文はこの本でも、同じ著者の他の本でも観察される。そしてこれはたまたま見つかったものではなく、彼のスタイルの性格なのであり、彼の著作を勉強するのに侮りがたい障壁で、そこを通り抜けることで彼の哲学にある重要性を知ることになる。彼や彼の国の多くの者にとって文とは大雑把な鋳型、可塑的な形式で、可能な限り広げることが認められている。簡単な輪郭の上に上部構造が、その上に<上部>上部構造が重ねられ、次第に誰の眼も届かない眼がくらむような高さの建築が建てられる。自然な衝動に従い、追加事項、例外事項、変更事項が別の文にではなく、同じ文に挿入され詰め込まれていて、カントにとっては最初から最後まで一つの巨大な文で終わる本を書くのも十分に自然なことだろう。我々は時に英国議会でそうしたことがなされているのを見るが、それは人工的なもので法律上の目的もあれば使用価値もある。一般的な法文は正確な制限を設けるまでは部分的に誤りになってしまうことがあるので、法の制定者はこの一時的である間違いさえ避けるために主文に制限事項を書き加えておくのである。即ちAは、eあるいはiあるいはoの条件のもと常に�]の権利を有するなどと。かくして、�]が無条件な場合に起こる間違いが避けられる。こうして真実とは最初から条件つきの真実である。それ故、理論的には利用価値がある。だが実際上はどうか。議会法を読もうとするとき、例外には第二の例外があり、制限事項に更に制限事項があるというように<順次に>巨大なまでに従属事項が続いているなら、精神は過労状態となろう。最も元気なものでも元気を失くそう。そしてピット氏は頭の上でも実際上でも普通ではないことに直面して、こんな専門的な詳細について争うことはできないと公に宣言することになることは避けられない結果である。彼は条項の迷宮で道を見失ったと宣言する。最終的な解放のためのアリアドネの糸が欠けていた。彼は最後に自分の置かれた状況を、山師でもなければ、綱渡りめいた詭計によって評判を得ようとも思っていない者の自然な率直さでこう記す。「例外や例外の例外といったことのなかで肝心なことを理解するのを止めてしまった。つまり、この法律でなにが許されなにが許されないのか、ということである。」

 

 ドイツの散文のことで読者を楽しませたかもしれないが、我々はぐずぐずしてはいられない。フランスのスタイルの対極にあると言っておけば充分である。我々のスタイルは、(更に悪いことに)我々のスタイルの<傾向>はドイツの方に向かっている。ドイツ語を読む者、群れなす作家たちによって書かれたドイツ散文を読む者は、スイフトの巨人国に入った者や歪んだ鏡を見る者のように自分自身の最も不快な欠点を見せられるのである。 だが、こうした欠点、それは実際我々が描いたようにかくも疲労、消耗させられるものなのだろうか。多分そうではない。そうしたことが起こった場合、スタイルの欠点が最も誇張されて言われることよりも結果的には更に悪い言い逃れがされているのではないかと読者に自問させよう。長い経験から言うと、ジャーナリストが支え、自分の意見を述べる過剰な積み重ね、「ペリオディック」な書き方を避け、仕事の価値を時間の短縮に置くような者は当然のように速読へ向かってしまう。単に時間の無駄ということではなく、心をそこに<留め置く>ことに努力と緊張感がいるので、殆んどの読者は注意深い読書の習慣を嫌がってしまう。現代の悪には現代の治療法がある。誰もが主導的な語、書き手の考え方の道筋にある主要な点や分かれ道を捉えるやり方を次第に覚えてきている。確かでもあり、嫌がられてもいることだが、単なる繰り返しや細かな<つけたし>が多いので、あれこれの短縮くらいでは殆んど何も失われることはない。確かに、特定の主題に関しては、そんな省略を許さないものがある。それが直接的な関心を引くものではなく、より大きな関心に関わる、そのときには間接的ではあっても、知性をもつ者にとっては最も直接的で絶対的な関心の対象であれば、読者は永続的な衰弱に落ち込んでしまう。不自然な性質を得、救いがたい濫読の習慣を作ってしまう。人間の知識について言えば、それは浅薄に、あるいは(浅薄よりも悪いことには)その基礎において誤った不確かなものになって、こうした習慣の悪を過小評価することが広がっている。いい加減な読書の習慣は結局、人間の能力に反動し、判断力や理性に影響を与える。そしてそれは持続的である。情報量については少ないだろうが、新聞を読む速度でヴァチカン図書館を読破するよりも(分別をもって選んだ)六十冊の本をしっかりと読んだほうが千倍もいい。そして、最終的な習慣、正しく考え合理的に判断する習慣のためには、ヨーロッパ中の新聞をこのでたらめな「飛ばし読み」で読むよりは一生の間一行も読まないほうがいいのである。

 

 だが、この全速力で駆け抜けるパルティア人風の習慣——目立つところを狙い撃ちにし、これもまたパルティア人風なのだが、退却中に矢を放ち、敵に直接向き合うことを恐れる——によって、若者や順応性のある者はジャーナリズムの次第に広がる専制に馴らされてしまっている。それ故、悪の大部分はスタイルにある。というのも、それが読者を嫌がらせ、速読を強いるからである。この悪の部分は、それ故、治療を受ける必要がある。