ブラッドリー『論理学』35

 §40.多くの難点に出会い、そのうちのいくつかは解決できたと私は信じているが、単称判断の第二の区分についての考察を終わることになる。第三の、時間における出来事の数に限定されない判断に移らねばならない(§7)。しかし、先に進む前に、しばらく時間を割き、いかにも危険な実験ではあるが、ある総合判断を取り上げてみることにしよう。ホガースの遊女や放蕩者が練り歩く一続きの絵を思い浮かべてみよう。しかしそれ以外にもつけ加えることがある。系列のなかの一つの絵は実在で、実際の部屋に現実の人間がおり、この実在の部屋の壁にはそれより前と後の絵が掛かっていなければならない。部屋にいる人間と絵のなかにいる人間とは同じ性質をもっているので、額縁は無視して、全系列は<彼の>過去と未来として配列される。我々はこのようにして目に見ることのできる部屋、現前する場面を超越して時間の系列として拡がっていく人間の現実の生を見てとる。

 

 しかし、我々の見る実在の部屋にいる男は身体があり、骨があり、息も血もあるが、その過去と未来は、実在ということで感覚される事実を意味するなら、ガラスと木と絵の具と画布以外の何ものでもない。それは我々皆の未来や過去と同じである。記憶や予期による出来事は我々の心にある事実でるが、それがあらわす実在は、絵の具と画布による心臓以上のものでは<ない>。疑いなくそれは実在をあらわし、我々はもしそれが事実ではあり得なくとも、少なくとも真ではある、と密かに信じている。実際、もし真実が実在をあらわす自然で不可避的な方法を意味するなら、それは正しい。しかし、真実ということで、もし我々がそれ以上のことを理解するとするなら、実在が我々の観念的な構築物にあらわれる<通り>のものであり、現実にそこには過去、現在、未来の事実が<存在する>と言うなら、我々が調べてきたように、真実は虚偽にへと変化するのではないかと私は恐れる。知覚による検証でも間違っているだろうし、別の基準で試したとしても、より虚偽であることがはっきりするだけだろう。

 

 §41.人間の生は一つの場面であらわすことはできず、この例は我々が考えたよりも射程が長い。生は単に系列をなす出来事の継起であるのではなく、(我々が思っているところでは)なんらかの同一のもの、あらゆる出来事に異なった姿でではなく、真の同一性をもってあらわれるなにかを含んでいる。我々は単称判断の三番目の主要なクラスにたどり着いたのであり、出来事ではない主語のことを語っている。この種の判断は、そこで扱われる個的なものがある特定の時間と関わっているのか、あるいはどんな時間とも関わっていないのかによって二つに分けられる。

 

 III.(i)人間や国家の歴史においては、我々は実在を指し示す内容をもっているが、その実在は所与の知覚への関係によって決定される系列のある部分にあらわれるものである。(ii)二つめの分類には、普遍や神や、魂を永遠のものとするなら魂に関する判断を入れなければならない。ここでは、我々の観念は知覚において見いだす実在と同一であるが、それは現象の系列のいかなる部分にも結びつかない。もちろん、そうした判断は錯覚だと言われるかもしれない。しかし、既に見たように、もし正しいとしても、この結論は我々にはする場所のない形而上学的探求によってのみ確立される事柄なのである。そうした判断は存在する、そして、論理学はそれを認める以外のことはできない。

 

 この三番目で、最後の単称判断のクラスは他のものとは異なっている。その本質は、究極的な主語は、「これ」にあらわれたり、系列のどの出来事かにあらわれる実在ではないことにある。しかし、この区別はある程度まで不安定である。分析判断が常に総合判断になろうとするように、ここでも、このクラスの最初の判断を総合的判断から明確に分けることは不可能である。一方において、時間的要素の連続性は単に系列的であるような性格を厳密に排除する。出来事に関するあらゆる判断において、我々は知らぬうちに同一性の存在を肯定している。他方において、ある系列における個的な生は、系列を形づくる判断のクラスにごく自然に属しているように思われる。しかしながら、個的なものに関する限り、我々は明らかに出来事の変化を通じて変わらないなんらかの実在を認めているのであるから、原則的に揺れ動くことは認めた上で、この区別を保ち続けるのがいいだろう。個人の人間の例は、我々を分析判断から総合判断へと導いた。また、それは更に先へ進む助けとなる。