トマス・ド・クインシー『スタイル』10

 スタイルについての議論で数多くある誤りのうちの一つは、良いものであれ悪いものであれ、スタイルが責を負うべき諸性質のリストがつくられるのだが、それはすべてを数え上げたと確信できるようなアプリオリに演繹される原理に基づくものではなく、試験的なグループ分けであり、仮の評価なのである。<スタイル>という語は二つの意味をもっている。一つは狭い意味で、<語の統合>、語を同化させることで文にすることをあらわす。もう一つはより広い拡がりをもっており、思考と語がとりうるあらゆる関係が表現されている。つまり作家が与えられる全効果である。スタイルは<器官的>とも<機械的>とも見ることができる。器官的ということで我々が意味するのは、それが働きかけられ、反応し、なにも失うことなしにコミュニケーションを繁殖させていくことにある。機械的ということで意味されているのは、運動を起こすとそれを元に戻すには損失を被らずにはおらず、それゆえにすぐに終わりがくるということである。人間の身体は諸器官の洗練された体系である。それは諸器官によって維持されている。だが、人間の身体は機械として働いており、馬に乗る、踊る、跳ぶなどは機械としての働きであり、運動と平衡の法則に従っている。さて、言葉というのは思考と結びつき、思考によって変容される限り器官的である。語の結びつきが互いを決定したり変容させる限りにおいて機械的である。思考の器官としてのスタイル、観念と感情の関係性であるスタイルの科学はスタイルの<器官学>と呼ばれるだろう。語が語に、文法を通じて働きかける機械として考えられるスタイルの科学はスタイルの<機械学>と呼ばれよう。文において働くこの二つのものがどんな名で表現されるかは殆んど重要なことではない。だが、この二つの働きを混同しないというのは大変重要なことである。思考と交渉をもつスタイルの働きと主に文法と語に関わるスタイルの働きと。衒学者は名前についてあれこれ言う。だが、論理について無頓着な者では、ある名で呼ばれるもののなかの諸観念の区別が無視されてしまう。

 

 我々の議論はどこまできたのだろうか。たまたまではあるが、我々の前には第一の部分の(つまり器官学の)興味深い領野がある。ギリシャとローマの修辞家によって踏み固められた場、出版が始まって以来古代の人々と我々の状況の対照から生じた特殊な問題に導かれる。つまらない発明に思われるかもしれないが、句読法(注1)は活版術の産物である。この小さな付加がスタイルに及ぼす影響を辿ることは興味深い。以前は、人は統辞の誤解から身を守るのに大変だった。語の配置の間違いや入れ違いはすべての意味を困惑させる。少なく見積もっても<無>意味なものになってしまうし、危険な意味を取ってしまうこともしばしばである。句読法は作家の間違いから完全な意味を守るための人為的機構である。それによって正確で注意深い配列につきまとう不安を拭い去ることになった。意味を損なわないようにするため、作家の気苦労を楽にするためのもう一つのより大きな機構はラテン語の精妙な人為的構造で、その末尾の形を見れば配列がわかり、正確な主語と正確な述語とが結びつき、気取りも怠惰も論理や統辞の流れを乱すことはない。勿論、ギリシャも同じような長所をもってはいたが、程度においては異なる。それによって修辞家たちの注意からは逃れてしまっているある相違が生じる。ここではまたチャールズ・フォックスによって出された問題(だが、多分もともとはエドモンド・バークのような、より繊細な友人との会話のお蔭で生れたものなのだろうが)、脚注——その<形式>においては完全に現代のものだが——正しい文章の法則とどう調和させられるかということである。形式として脚注は古代には存在せず、どう避けたのか我々は指摘することができる。明らかに問題は思考との関連におけるスタイルからきている。つまり、脚注のような突出物によって、文は自らが含む概念を十分に発展させることができるかということにある。炉に何回も入れ、鋳直すことによって、それまでは脚注に流れていた余計な部分が書き直せるのではないか。ここには古代人と我々とのスタイルや文章法の相違についての問題ばかりでなく、現代の各国を互いに比較したときのそれぞれの長所の問題がある。先程も主張したように、フランスはその文の配列の趣味のよさにおいて、疑いなく他のどの国よりも大きな長所をもっている。てきぱきとした簡潔さ(なにかをフランス風にするときに要求されるもの)で、それに乗って思考は働き、厄介な複雑さはなく、短かな文が続く。実際、この非常に貴重な長所は極端にまでいきがちである。<紐のようなスタイル>に対する<打つようなスタイル>、<荘重>に対する<軽率>、<連続性>に対する<乱雑さ>、それらがフランスの文がうっかり、頻繁にあらわにする極端なのである。しかし、軽率であることは、現代の英国のスタイルの悪徳からくる知的習慣、でっぱり混乱した忌まわしい形よりはいい。だが、実際的な価値にもかかわらず、フランスのスタイルの知的長所は僅かなものであることは明らかである。第一に、大体において否定的であるし、第二に、会話における必然性に基づいている。会話の法則が彼らの文を規定しており、この法則では自分のことと同様平等への配慮が働いている。Hanc veniam petimusque damusque vicissim.ギブ・アンド・テイクが規則である。自分の話を聞いてもらおうと思うものは身を譲り、人の話を聞かなければならない。どちらにとっても必要なのは簡潔であることである。このようにして得られた簡潔さには利点は殆んどなく、深い思考のためには時には障害でもあるに違いないことは確かである。簡潔であるために、人は素早い一瞥で済まさねばならない。思考の範囲は広いものではありえない。こうした規則が思考の一般的方法とされると、それはある周知のことについてのアフォリズム箴言の場合にはいいが、まだ測り知れないもののなかを探査するようなときには良くない。思考器官としてのスタイルをさらに探求していくと、散文の高い質をもつフランスの巨大な欠点に行き会うことになる。生の実際的な面に役立つ一つの利点は悲しいことに無数の欠点を伴っており、その多くは<スタミナ>に関するもので、矯正できるようなものではなく、思考を感情に結びつけたり、創造的想像力と結びつけることがまったくできない、まったく思考には不向きな貧困さがある。器官学という名のもとにスタイルの論理と装飾に関わるより細かな話題はまだ沢山ある。だが、実際的で、考察にそれほど困難ではなく、そのためより理解や評価のしやすいものは機械学の方に入ることだろう。不都合、不明瞭、不釣合い、二重の意味といった最も頻繁に起きることを避けるための規則は一巻の論文を書こうとする者より急ぐ必要のある作家を助けるだろう。恥を忍んでつけ加えておかねばならないが、二、三の例外を除いて(半ば野蛮な時代にいたことを思えばシェイクスピアはそのうちの一人に入る)、我々の間には文法を完全なものにした者さえ殆んどおらず、莫大な読書を通じても、英語の文法の語形や統辞を間違えたことのない者など見たこともない。

 

(注1)これは最も教訓的な事実である。それほど教訓的はないもう一つの事実があって、それは、私の信じるところでは、キリスト教国の殆んどの国の法律家が、どれほど専門的で抜け目がなくとも句読法を許容しないということである。だがなぜか。法律家は句読法によってもたらされる明らかな効果を気づかないのだろうか。確かに彼らは気づいて<いる>。だが彼らはまた句読法が不注意に非論理的に使われたとき(それもよくあることである)に与えられる誤った先入観についても気づいている。簡単な例がある。句読法はそれがなければ限定のないところに限定を加える。(限定を加えることに<よって>)読者を正しく<ない>方角から正しい方へ導くこともある。だが、また、句読法は読者を誤った意味に導くよう偏向させ方向を示すようなことが非常にしばしば(そしてそのような力は常に)ある。したがって、導き手がいないよりは誤りがちな導き手がいた方がいいかもしれないが、それが常に間違う可能性の<ある>以上、疑い、信用しないでおかなければならない。