トマス・ド・クインシー『スタイル』11

 我々の論及がどうなったにしろ、スタイルが日常の実際的なものとして必然性が高まっていることを主張して結論にしたい。公的な関心が主題ならば、常にそれに見合った(文学が成長すれば)競合がなされるだろう。他のことが同じなら、あるいは同じに見えるなら、公的選択の決め手はスタイルにあるだろう。ドイツの本については、他の点では尊敬に値するが、読めるようなものではなく、スタイルとしては反感を抱かせるものである。我々の間では新聞がそうである。それは<省略せずに>読めたものではない。速読が心につける傷については既に見てきた。かつてなされていた読み方が一般的なものになっている。この特殊な悪に対してスタイルを向上させるには特殊な矯正をする必要があろう。この向上は競合に関心をもつものからは喧しく要求されている。公的な贅沢というのは、次第に他のものによって診断されるようになっているが、最終的にはスタイルにおいて診断されなければならない。




第二部

 

 この自然資源は、その帰結を探ることは困難だが、成長を辿ることに努めよう。分析的にその性質を明かすことに失敗したので、その起源を辿ることによって混乱を除くようにしよう。その理論を挙げることはできないので、発達段階を探るよう努めよう。例えば、封建制度(ゴシックのであれ、ノルマンのであれ、アングロ=サクソンのであれ)の慣習や働きについて記録が不完全であるために判読できかねるとき、我々は制度が起こったときの状況をみることによって推量して知識を修正する。残された事実が示す時代の必然性から、我々は成長の各段階においてその必然性が規定する布置の流れを辿れることがある。

 

 この斜めからの探査は、より直接的な方法が駄目なときにできる唯一のものである。そして、このことは法律や制度よりも自由七科についてより真実であって、というのも、かけ離れた二つの時代は社会的必要性においてよりその楽しみとすることにおいてより異なっているものだからである。財産を安全なものとし、生命を神聖なものとする。どこにおいてもそれが法律の第一の目的である。だが、人間の知的な愉しみは異なっているので、そうした愉しみの目的や基本的な働きも異なる。異なった目的同様異なった手段がある。例えば、ギリシャにおいて劇は宗教と結びついている。他の時代においては、宗教は最も劇に敵対する力なのである。かくして、儀式的、神話的宗教は古い未成熟な時代に最もあったもので、ギリシャ悲劇は文学の発祥以前に消滅する。アリストテレスの時代は洗練と文学の発達の最初期の時代だと言われる。だが、アリストテレスギリシャ悲劇についてのエッセイを書いたのは、ギリシャ悲劇の<代表作>が出版されたちょうど一世紀の後なのである。