トマス・ド・クインシー『スタイル』12

 それ故、法の適用といったことの正確な説明にでさえその歴史に赴かねばならず、我々自身の社会的必要性からの単なる類推では充分でないとすれば、芸術や知的愉しみのあり方を説明するにはそれ以上のものが必要とされるだろう。なぜ古代には風景画はないのか、この問題は生の神秘のように深く、法学の問題をすべて合わせたものよりも難解である。その歴史や神話的起源を知らないならギリシャ悲劇がどのようにして形作られたのか殆んど推測することさえできない。そして、我々が<スタイル>と呼ぶところのものについて言えば、その最初期の発達時期における歴史的事実を見過ごすなら、この問題について、素描、輪郭、ヒントさえも得ることはできないだろう。

 

 この世界に<散文>と呼ばれるものを始めて生み出したのはなんだったのか。それは、法廷、裁判、演壇(το Βημα)においてだった。ギボンやイスラム教の歴史家の多くは不条理にもカリフの説教壇と呼んでいるが、むしろ船嘴演壇、ローマの軍事的suggestus、アテネの<ベーマ>と呼ぶべきである。獰猛で一般的に言って教育のないイスラム教徒が聴衆を前に熱弁を振るうことはあるが、説教することはできない。説教の主題がない(注1)からである。印刷術のない異教世界の社会状況においては、こうした人間の働き、演説というものはキリスト教に照らされた現代人以上に、公的生活にとって単なる必然性以上のものがあった。薄命のうちにいる現代のイスラム教徒について言えば、その頑迷固陋によってキリスト教のエネルギーの源泉たる印刷術を否定している。この記念すべき発明によって十字架の光が普及してちょうど四世紀になる。それを拒否したイスラム勢が闇に囚われてちょうど四世紀になる。キリスト教徒は名前を書き、イスラム教徒は印をつける。印刷術が発明された数年後にジャック・ケードが立ったその場所にイスラム教の偉大な医師たちがいまようやく立っている。ジャックも彼らも綴り字教本をもっているのを発見され、文でもって魔法を使っているとして罪に問われたのである。

 

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*1:(注1)「主題がない」——主題があるとすればなんであろうか。イスラム教の唯一の教義——唯一の神、預言者としてのマホメットの使命(つまり、予知や予測をするものではなく解釈者としての)——<それは>イスラム戦士すべてに知られていると仮定されねばならない。というのも、それを知らなければイスラム軍に入ることが許されないからである。だが、こうした教義は拡張が、あるいは少なくとも証拠が必要とされるのではないだろうか。まったくそうではない。イスラム教徒はそれができないと信じている。だが、少なくともカリフは真の信仰を浸透させることを第一の義務として演壇に上がっているのではないだろうか。違う。それは第一の義務では<なく>、第二の義務である。しかも選択事項、つまり、感謝、死、改宗などは許されていない。それでは、カリフは第二の義務を主張する目的で演壇に登っているのだろうか。いや、それはできない。というのも、この義務は時間や空間に限定されたものではないからである。いつでも同じである良心が仮定されているので議論や例示の必要はない。それでは、カリフはなにについて語って<いた>のだろうか。それはこうである。彼は多くの喉を切り裂いた男を賞賛した。預言者の旗のもと自らの喉を切り裂いた男を弔い賛美した。次の運動、次の軍事行動の万全を期した計画について説明した。実際彼はペリクレスが、スキピオが、シーザーがしたこと、戦争の前後や、一般的に説明が必要なときにローマの大将軍が行わなければならない任務と同じことをしたのである。「一般命令」においてなされねばならないのは<口頭で>の伝達である。取るに足らない伝達は各歩兵隊(連隊)の六人の百卒長に伝えられただろう。より重大な伝達は大将軍とその将校に留め置かれた。<裁判所>や<法廷>から軍隊に向けて正式の通達を演壇からの説教というように誤った教え方をすれば、学び手はイスラム教徒の信仰と、それが人間の精神にどう関わっているかについて間違った理解をせざるを得ないだろう。確かにそれはユダヤ教キリスト教からの貧しい剽窃だった。必要な知的発達がなく、注釈や議論が可能ではなかったので真実を得るまでには至らなかった。しかし、カリフが説教していたのなら、副官たちは<アーメン>と言っただろう。オマールが重要人物なら、確かにカレドはその部下なのである。