トマス・ド・クインシー『スタイル』13

 しかし、こうした相違にもかかわらず、我々はみな、異教徒も、イスラム教徒も、キリスト教徒も政治や個人的な策謀に欠くことのできないものとして演説は行われてきている。目的が法律制定に関することだろうと、法廷でのことだろうと、同郷人に市民としても利益を熱情的にもたらそうとするものであろうと、(国家が充分に民主的であるなら)行政府の行動を説明するものであろうと、個人的な陰謀を告発するものであろうと、そして聴衆が群集であれ、元老院であれ、裁判関係者であれ、軍隊であれ、二千五百年前の異教徒も現代の我々も同じように(程度まで同じであるわけではないが)演説の技術、つまり韻文に対立するものとしての散文は市民生活の主要な力、大きな知的機構なのである。

 

 これを当然のことに思う者もいるだろう。「韻をふんで話す者がいたろうか」これには、社会がある洗練の時期に入ると、言葉の使用法は他の技芸とともに発達する、だが、本来、人間が未開の単純さのうちにいたときには、散文で話すというのは不自然、いや不条理に思われたに違いない。というのも、その時代、演説を正当化し、鼓舞したのはなにか熱情的な動機に関係した場合しかなかった。そうしたことは滅多にないので、必要なのは感動させる「紳士殿」とそれを支持する「友人殿」で、短長格の三歩格の形で伝えられるよう求められる。かくして託宣が詩の形で伝えられる必要性が生じる。散文の託宣など誰が聞いたことがあろう。そしてギリシャの趣味が発展していくに従って、デルフォイからの詩の粗雑な質についての悪評がアテネで囁かれることになる。オックスフォードから質の悪いラテン語が出てくるようなものである。アポロ自身がソフォクレスの時代には自分の神殿から、時にギリシャ人を驚かせたバーミンガム六歩格のようなものを追い出しており、それはわが英国王室において、ポープが文学に一時代を画しているときに脱穀機ステファン・ダックを国民的桂冠詩人としているようなものである。韻律はこうした学問的な時代には過小評価される。だが、韻律というのは公的に真理を発言する際に常に用いられる最も早い容器であった。それには次のような明らかな理由がある。——1.韻律が通常家庭生活の基準から離れたところにあるなら、公的に発せられるだけの重要で特異な真理がなにかしらあるに違いない。2.宗教的な教えは常に韻律形式で来ると自然な感情で連想しているので、宗教的な正当性を得ようとするときには同じような形式をとることで特権を与えられる。3.自然に強調効果を招くことができる表現や形式は、始めから既に通常の語使用から離れている韻律にして正当化されるもので、普通の散文では気取りとしてあらわれてしまう。韻は熱情的な感情の原因、そうした感情の同類であり、その結果であるので、自然にまた必然的に熱情的な主題を扱うことになる。だが、熱情的<ではない>他の主題についても韻律は巧妙な同盟者であって、というのも、圧縮、対象その他の修辞的効果について妥当だと思わせ納得させるのは韻律であり、(調和の基調として)それがなければ不自然で気取りに満ちたものと感じられてしまう。例えば、問いかけや情熱の発散等などは韻が(基調として働き)調音され、心にその効果に対する準備ができていればこの上なく自然なものに思われる。韻律は主調音を揺るがしたり、荒々しく傷つけることなしに濃淡をつけ彩りを豊かにするが、適当だと半ば意識的に感じられる場所に置かないと不快なものとなる。社会の最初期の段階においては、人が韻律に赴くのはまったく自然なことだろう。それはインスピレーションの一つであり、なにか超自然的なものを約束する。そして、超自然的なものでなければ、公的な演説を要求できるだけの緊急性があると認められない。偉大な真理だけが人を演説家とすることができる。そのとき彼は神と人間との間に立つ一種の解釈者なのである。

 

 それ故、最初は韻律に赴くことがまったく自然だった。後になり、真理が広がり始めると——真理は人間の細かなことに関わりすぎ、神聖ななにかを失ってしまった——本来は自然で必然的なものであった真理の賞賛やそれに向けて注意を得ようと努めることが人為的になされるようになった。こうした理由から、本物らしい特徴を得ようとする者が韻律が習慣的な衝迫の声であることを止めた後にも、長年に渡って韻律でもって語り続けたことは確かである。どんな主張であるにしろ、託宣の権威とは通常託宣の外面的な形式にある。そして、インスピレーションのしるしではなくなった後も、韻律は職業上のしるしとして保持されたのである。例えば、紀元後五世紀でいうと、ピタゴラスターレス、テオグニスは韻律を二次的な技術として使っているが、オルフェウスや大シビルは本来の必要性から使っている。