ブラッドリー『論理学』39

 §48.普遍的判断はすべて仮言的である、という結論は我々を再び以前からの難点に陥らせる(§6)。判断は常に真を意図するもので、真理は事実についての真を意味しなければならなかった。しかし、ここで我々が出会うのは事実に関するものとは思えない判断である。というのも、仮言的判断は仮定を扱わねばならないからである。それは我々の頭のなかにある観念の必然的なつながりを主張するが、頭の外側のことは言わない。しかし、もしそうなら、それは判断ではあり得ないだろう。単に主張はするにしても、それが真や偽ではあり得ない。

 

 我々はこの結論にとどまることはできないが、前提を取り消すこともできない。そこで、問題により近づき、判断に含まれているものをより限定して調べてみることにしよう。まず第一に、仮定がなんであるかを知るまでは我々は成功を期待できない。

 

 第一に、仮定が観念であること、多分事実から分岐したものであることは知られていよう。あらゆるものが事実である(第一章参照)精神の低次の段階ではそれは存在できない。というのも、仮定されたものは観念内容として知られねばならず、加えて、判断なしに心に保持されねばならないからである。それは肯定的にであれ否定的にであれ、形容として実在を指し示すものではない。別の言葉で言えば、実在はそれを当てられることによってもそれから排除されることによっても性質づけされない。しかし、判断しないといっても、仮定は(それ自体として)欲望や情動を排除するので、知的なものである。そしてまた、注意によって銘記され同じ内容のまま保持されるべきものなので、単なる想像以上でもある(第三巻第三章§23,24を見よ)。これですべてのようにも思えるが、まだそうではない。というのも、キメラのことを考えるのはキメラを<仮定する>のとは同じではないからである。

 

 仮定とはある特別な目的に向かい、特殊な方法で考えることを意味する。それは単にある意味に注意を向けることではないし、その要素を分析することでもない。それは実在の世界を参照し、何が起っているかを見ようという欲望を含んでいる。別の使用法から例を引けるだろう。「議論でのことに限って言えば」、「こう言えばあなたにもわかるだろうが」というのは、「そうであると仮定すると」と同じである。つまり、仮定というのは観念の実験である。それは実在についてある内容を当てはめることだが、それによってその帰結がどうなるかを見、実際の判断を暗黙のうちに保留にしている。仮定というのは、ある仕方で性質づけられたときに実在がどう振る舞うかを見るために、実際それがあるものとして考える。

 

 判断を控えている間も、思考に存在の観念がつけ加えられていると言われるかもしれない。考えないというだけでは十分ではないのである。使用されているのは単なる存在の<観念>ではないからである。我々が使っているのは常に我々の心と直接的に接している実在であり、多様な判断において我々が既にある内容で性質づけている。我々はそれに別の観念を継ぎ足し、結果がどうなるか見ているわけである。

 

 §49.我々が判断しなければ、真も偽も存在しない。この作業は、その限りで「主観的」だと言える。それはすべて我々自身が頭のなかで外とは関わりなくすることである。実在は我々が適用する属性によって性質づけられていない。しかし、我々が判断するやいなや、真か偽が生まれ、実在が問題に関わってくる。ここでは、「もし」とその結果である「そのとき」との、条件と実験結果との関わりが主張されている事実であり、それが実在そのものの真か偽なのである。

 

 しかし、問題は<どのようにして>かである。仮定した観念内容を主張しているわけではないし、その結果の存在を主張しているのでもない。また、つながりの存在を主張することもできない、というのも、いかなる事実も関わっていないときに、どうしてあるつながりが事実であり得ようか。「黙ってさえいれば、きみは哲学者で通るだろう。」しかし、あなたが黙っていなかったから、哲学者とは思われなかったし、人は別の結果であることはないし、それは可能でもない。実在が二つのものの関わりで性質づけられなければならないとすると、性質づけられることなど全くないように思える。条件も、結果も、関係も実在に帰することはできない。だが、我々は判断のためにはなにかを実在に帰さ<ねばならない>。しかし、なにが可能だろうか。