ブラッドリー『論理学』40
§50.私がある男の所に行き、そのふるまいについて質問すると、彼は「私は別のやり方ではなく、このようにするべきなのだ」と答えたとすると、私は彼から事実についていくつかの知識を得たことになる。しかしその事実とは創案された立場でも、仮定された行動でも、それらの間の想像的な関係でもない。ここの事実とは、その男の性向にある性質である。ある意味それは試験に対する答えになっている。しかし、その試験は虚構であり、答えも事実ではなく、男はどちらによっても性質づけられはしない。実験によって明らかにされたのは<彼の>隠れていた性格である。
このことはすべての仮言的判断について言える。実在の形容として肯定されるような事実、真あるいは偽であるような事実はこの判断にはあからさまにあらわれはしない。観念実験の条件も結果も真として捉えられはしない。肯定されているのは、つながりの土台となるものである。実在の実際に存在する行動ではなく、傾向としてある隠れた性質、実験によってあらわれた性質であるが、その存在は実験に依存しているわけではない。「君が気圧計を壊さなかったら、それが危険を知らせてくれただろうに。」この判断において、我々はそうした状況の、そして自然の一般的な法則の現実における存在を認め、もしある条件があると<仮定すると>、ある結果が生まれるとしている。しかし、そうした条件や結果は実在の性質ではないし、それ自体が実在だとほのめかすこともできない。それら自体もその関係も共に実在は不可能である。それは我々の目の前にある現実の世界に認められる圧力やそうした結果をもたらす法則を縮小したものである。もちろん、その法則は更に分解してみることができる(§52)。
§51.あらゆる判断において、真理は我々がつくりだすもののようには思えない。我々には多分判断する必要などはないのだろうが、もし判断をするとすべての自由を失う。実在との関係において我々は強制されているのを感じる(§4)。定言判断においては、要素そのものが我々の選択にはまかされていない。我々が考え、言うことのできるものは、存在する。しかし、仮言判断においては、要素に関する強制はない。実際、第二の要素は第一の要素に依存しているが、第一の要素は任意のものである。それは私の選択にかかっている。それを実在に適用するのもしないのも望むがままである。そして、自分でつくった仮定から身を引くことも自由である。条件が続く限り、結果も同じように続く。強制は両者のつながり以上には拡がることなく、つながりそのものにも届かない。仮言判断の要素の関係は、その関係自体が任意のものなので、実在の実際の属性ではない。実験の外では真である必要はない。実験の前に存在した事実は実験の後も真であり、実験にはなんの影響も受けず、その要素でも、要素間の関係でもない性質である。実在として真<である>連続性の土台となるもので、この土台には強制が働いている。