幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈5

頭の露をふるふ赤馬     重五

 

 意味は明らかで解釈はいらない。逞しく太いもの運ぶ馬が、勢いよく頭を振る様子で、「露をふるふ」という言葉が生動して、情景が見えるようにである。運ぶのは芝か米か。『大鏡』によって、前句を都移しと見て、『萬葉集』第十九の「おほぎみは神にしませば赤駒の腹ばふ田居を都となしつ」とあるのをふまえて、白馬でも黒馬でも動かぬ証拠となるものを、赤馬の色を使ったのが面白いなどと註するのは浅薄だなどと論じるのは、かえってよくない。うがち過ぎだと言うべきである。同じ『萬葉集』の歌を踏まえてのものだというなら、第七の「武庫河の水尾を早み赤駒のあがくそゝぎに沾れにけるかも」を抜きだして解釈すべきで、武庫川は摂津にあり、そのほとりには名高い酒造りの場がある。また「もがくそそぎに濡れた」というのを踏まえて、頭の露をふるうと転じたというのも興がない。いずれにしろ「神にしませば」の歌を引用して、白馬でも黒馬でも動かぬ証拠となるというのは非常につたない。わが国には赤馬が少なくなく、『萬葉集』にも赤馬を呼んだ歌が少なくなく、証拠呼ばわりは片腹痛い。この句が武庫川の歌を踏まえたものかどうか、そこまで深入りして解釈しないでもいいが、もし大君の歌を踏まえたという位なら、前句も有明の主水と、物々しく仔細ありげに言っているので、武庫川の古歌を踏まえてつくったといった方が、灘の縁もあり、よく酒がかかったより解釈だと言える。実際、武庫の酒造りの地にはいまでも露をふるう赤馬の景色が見られる。また芝山が言うには、五畿内より西では、酒を飲むことを赤馬に乗るといい、よそにいくとき、酒店に入って飲むのを、酔いに乗じて道を進むことから、赤馬にのって行こうという、とのことだ。これも必要のない解釈である。白い酒を白馬といい、赤い酒を赤馬というのも方言にある。しかしそのためにここで赤馬といっているわけではない。黒馬では面白くなく、白馬でも面白くない、赤馬というのが自然で面白い。何度も読みあげて味わってみるがいい、実にすらりとしたいい句で、前句とのかかりも非常に巧妙である。