ブラッドリー『論理学』42

 §54.我々が注意深く実在との接点に留意しているのは、すべての主張で曖昧であるわけではないし、疑わしいとも言えないことだろう。「彼が殺人を犯したのなら、絞首刑になるだろう」というのは、恐らく殺人と絞首刑との<一般的な>関連以外のことを主張しているわけではなく、「彼」は無関係である。しかし、「もし神が公正なら、不正は罰せられるだろう」では、多分、罪が<なんらかの>正義によってもたらされると言っているのではなく、全能という性質をもった正義によってもたらされるのだと言っている。他方、「この男がこの薬を飲むと、等々」と言うときには、この薬は誰にとっても毒であるから、あるいは彼のような人間には毒であるから、あるいはまたいまのような特殊な状況では彼のような人間には毒になるから速やかな死が訪れるだろうと言っているのではない。他の例もすべて同じような曖昧さで我々を混乱させる。仮定は明らかになっておらず、反省してみて確信されるのは、我々は判断の主語を知っていると仮定はしていても、いずれにしろその知識をあらわにはしていないことである。

 

 §55.それゆえ、形容する内容が明らかになっていないので、我々にあるのはこのあるいはあの事例についてのはっきりしない指示だけなので、我々が扱うべきなのは個物なのだと考える誤りに落ちこんでしまう。しかし、分析してみると、我々の真の主張は決して「あれ」、「いま」、「これ」に限られるものではない。それは常に我々が主張する内容ではある。しかし、我々にはその内容がなんであるか明確ではないために、それが仮定された個的なものの<なかに>見いだされることを知っているために、いわば一発の弾丸の代わりに弾倉を使い、個的なものを我々の仮定が限定される実在の地点だとみなしているのである。このようにして、実在そのものが仮定的だという誤った観念を生じさせることになる。既に見たように、事実とは、ある内容が、我々が主張する形容的な条件であるか、あるいはその部分をなすことにある。しかし、その内容は分析されていないので、それを固まりで得ることのできる個的なものに赴くことになる。真の判断は個的なものの<性質>にしか関わらず、形容のつながり以上のことを主張しない。あらゆる場合において、それは厳密に言うと、仮言的であると同時に普遍的なのである。