トマス・ド・クインシー『スタイル』17

 プラトンとクセノフォンがその神学においても互いに憎み合っていたに違いないとすれば、それは、彼らがあからさまになったなら調和するところなどないということを明らかにする事例である。彼らは可能な限り異なった雰囲気を身にまとっている。あらゆる点において異なる彼らは、哲学の仕事に本質的なものと考えていたわけではないが、疑いなく対話形式においても異なっている。ソクラテス一派が論争上の真理を扱う際にとる思考範囲がいかに狭いものであるかはこの一事実からも明らかである。彼らはそれをこうあらわす。つまり、彼らが空想する真理は別々の部分に、(力学から言葉を借りれば)諸モメントに、キケロがapices rerumやpunctiunculaeと呼ぶものに自ずからあらわれるという。それぞれは別々に検証されねばならない。<箇条書き>に従って論じるようなものである。それを吟味し、修正する聞き手がいなければならない。このことは活発な対話において始めて実行することができるだろう。独白している哲学者は誰一人敵する者のいないトーナメントでチャンピオンでいるかのようなものである。相手なしにチェスをしているようなものである。ゲームを進めることはできない。論争的な真理であるにしてもそうでないにしても、真理というものの広大な領野を思う者にとっては、ソクラテス哲学全体の基盤をなす概念がいかにみすぼらしい限られたものであるかは明らかである。しかし、我々は繰り返すが、これらすべての点を言っても、ソクラテスの弱さを適切に明らかにしたわけではない。賛成反対の議論によって別々に価値づけられないようなより大きな、より微妙なことが存在する。第一のものは第二のものを通じ、それによってのみ厳正であり、第二のものは第三のものに含まれる、等々ということがある。簡単な例として、テュルゴーやケネー以来発達した政治経済の体系を取り上げてみよう。それらはみな論争の産物である。つまり、すべて他の体系に対する敵意によって形づくられ、対立のうちに生まれた。だが、どの体系にしろソクラテスのような方法ではできあがらなかったろう。リカードを一文一文、あるいは一章一章調べてみれば、そんな方法はとても適用できないと声高に抵抗することとなろう。<持ちこたえて>いなければならないのである。ある原理を素早く把握し、別の七つ八つの原理を手に入れるまで保持し続けねばならない。それから、隔離された原理の一つを取り上げるのではなく、一続きの全体を取り、全理論が主張するものについて判決を下すのである。例えば、価値についての教説をばらばらにして理解することができるだろうか。別々に価値づけることができようか。価値論において様々な働きをする地代、利益、機構等々を見渡し熟考するまでは、そして、どの教説が最初に作用し、他の教説を立証することになるか確認するまでは、ソクラテス論理学のように<肯定>か<否定>か言うことはできまい。

 

 これらのことがもし避けることができないならば、<哲学様式>としてのソクラテス哲学、そしてプラトン哲学に対するノックダウンパンチである。そして、この哲学がどんなmodusやratio docendiとも異なる教説として扱われるなら喜ばしいことである。というのも、我々はプラトンやクセノフォンの本質がどこにあるのか決して発見できないだろうから。偶然のヒントやその時々の示唆では一学派を形成するのに必要な教説とは見ることができない。そして、プラトンについて十二巻や十八巻ものviritimを書いているドイツの退屈な代理人であるティーデマンやテンネマンはこの疑義を正さない限り読者を満足させることは困難だろう。というのも、この問題は「ソクラテス一派」の<方法>そのものを疑問視するに至るものであり、方法を例解するものがいなければ、ソクラテス一派は学派でなくなってしまうからである。

 

 だが、我々はこの方法を攻撃することで少々旅の道程からはずれてしまったのではないだろうか。我々の仕事はこの方法を<スタイル形式>として考えることで、<論理形式>として考えることではなかった。まったくそうだ、厳正なる読者よ。だがちょっとした逸脱や節度のある脱線は許されている。しかも、厳密に考えれば、我々は逸脱して<いた>のかどうか疑問が生じる。多年を通じてギリシャ散文にある力を振るい、ある特徴に向けて過剰な偏向を促していたものは我々の主張に関係する重要なものである。さて、散文を小説を伝える道具として使っていた最初期の哲学者たちが頑なに対話形式を守っていたことは、アテネ文学の最も早い時代からこの国の散文文学に対話的色合いを与えるという不幸な影響を与えた。長年に渡って空虚な伝説として伝えられてきたソクラテスの大きな権威が当然散文スタイルのこのねじれを強化した。ソクラテスの死の後五十年ほどたって、アリストテレスの書くものがギリシャの注意を引き始めた。ここにおいて、彼の一派の先輩たちが盲目的に、頑迷に従ってきた対話形式からの決然たる離反を見る。彼のスタイルは、後に見る原因のために無味乾燥したものだが、彼以前の人たちよりもずっと威厳があり、重みがあって、哲学的思索に適している。ソクラテスの若年期に同時代人であったアナクサゴラスは真の偉人でペリクレスの友人であり師とも呼ばれていた。彼がアリストテレスのスタイルで書いていたことは確かなように思われる。未来の解決を待つ新しい現象を数え上げるのではなく、いま存在する現象を解決して、教えるべき偉大な体系的真理をもっていたので、自然に連続的な記述の形式をとったのだろう。本当に現実的で新しい真理をもった偉人がそれを伝えようとするときには、ガリレオという唯一の例外を除いては、対話形式をとらないことを思い起こすのがいい。プラトンの生徒になる資格として幾何学が要求されると<評判>されているし、ガリレオもそうしたことで知られている。つまり、生徒は個人的に会話に加わろうとするにはδιδακτρουや授業料を支払った。だが彼は読者にはなんの資格も要求していないし、アテネでは彼の<全作品>はほとんど売られていなかった。プラトンの読者であるために、そしてクセノフォンはそれ以上であるが、かくも低い敷居しかないことが、ソクラテスの評判を普及するのに作用した。それに、二人の男が第三の人間のことを吹聴するというのはギリシャでは滅多にないことであり、どちらもチャタートンとマクファーソンと同じ目的をぼんやりと考えていたのだと疑っても酷いことではない。つまり、なにか明らかな賞賛がなされ、申し出られたときには公衆に向かい、「アテネの紳士諸君、このソクラテスという偶像は私の頭が生み出した幻想です。その哲学に関する限り、<私が>ソクラテスなのです」と言おうとしていたのだと。あるいは、(超人的な食欲をもち、六人前の夕食を注文した)ヘンデルが、夕食相手を待っているのだと思って食事を持ってこなかったと弁解する驚き顔のウェイターに向かって「君、私がその夕食相手なのだよ」と言ったようなものである。