トマス・ド・クインシー『スタイル』18

 だが、我々がソクラテス一派の書くものに見いだしてきた、そしてそれはソクラテスの殉死によって一層強められたのだが、会話様式はどう表現されているだろうか。どんな言語形式をとっているだろうか。どんな特徴があろうか。スタイル上の欠点はなんだろうか。説明してみるように努めよう。スカリゲル(記憶しているところでは年長の方)はギリシャの冠詞ο、η、τοについて語っていて、それをloquacissimoe gentis flabellumと呼んでいる。だが、pace superbissimi viri、それはナンセンスで、冠詞の使用は気まぐれなものではなく、ギリシャ語の構造と必然性に根ざしたものである。おしゃべりであろうがなかろうが、舌の哲学によって人はある状況には冠詞の使用を余儀なくされる。本当のことを言えば、その状況は英語でもまったく同じである。固有名詞や分詞や形容詞が名詞などの後につくことが許される場合が若干あるが、定冠詞の主要な働きは二つで、それはギリシャ語と英語で共通している。第一には個別化することである。例「それはどんな剣でもいいわけではない、私は父の剣が必要なのだ」。第二に正反対の働きが、つまり最高度に一般化する働きがある。最良の英語の文法書でも完全に無視されている使用法である。例「剣{軍人}はガウン{文官}に道を譲るべし」特定の剣ではなく、あらゆる剣が問題になっている(どちらも対応する職業をあらわすシンボルとして使われている)。「農民は延臣のあかぎれを逆なでする」(個人によって階級が示されている)。病気や患部について語るときは、通常定冠詞によって一般化する。「一つの頭痛で苦しんだ」とも言うが「頭痛で」とも言う。そして常に「彼は結石で死んだ」などと言う。そして、我々はLe coeur lui etait navre de douleurのように言うのをフランス語に特殊なことと思いがちであるが、我々自身も「心はこのことに感動した」と言うのである。こうした定冠詞の用法ではギリシャ語と英語の間に真の相違はほとんどない。主要な相違は否定的用法にある。冠詞がないときギリシャでは英語で冠詞aがついているのと同じだが、英語では一般化の一形式である。これらのことについて選択の余地はない。スカリゲルはこの避けようのないことについてギリシャの軽率さの例を見いだす権利はないのである。

 

 だが、<我々が>ギリシャ散文スタイルの威厳のなさと見るもの、饒舌さのしるし、ギリシャ散文が決してぬぐい去ることのない染みと見るものは、そこにある身体と聴覚に訴えかけることで過度に刺激された人々の激しやすく性急で誇示されたエネルギーと伴った強い会話形式なのである。こうしたスタイルは疑いなく独創的なものである。ウォルター・スコット氏によって最初に取り入れられたスコットランド下層階級の訛りのようなものである。この訛りは特色ある表現の大きな助けとなった。ドーリス訛りでも同じような利益が得られた。だが、どの大作のどこにそれが用いられ、登場人物が話しただろう。他の誰よりもプラトンによってむやみに用いられた虚字の多い会話体、文の形式に接続の形式、瞑想している人間に対立するおしゃべりな人間の強烈な特異性、そうしたことがギリシャ文学の表面を覆っている。ギリシャのものならばなんでも神聖と考える者もいるが、我々はこうした表現形式を単なる低俗さと位置づける。時々、ウェストモアランドでその地の古老に会う機会があるとき──まったくの土地言葉で喋り、現代の革命の試練の跡をとどめていない──隣町まではどれだけ遠いのか聞きたく思うときがあるだろう。そうしたとき、多分こんな答えを受け取るだろう。「そうさなあ、四マイル程の馬鹿近さ程だ」と。さて、もし抑え切れぬ好奇心でこの<程>という語の意味を探ろうとこの年老いた男を苦しませ困惑させるなら、得られる唯一の結果はほぼ<彼を>殺すだけのことであり、それは我ら自身にとってもいいことではない。これぞ本当の虚辞の満タンである。なぜ彼にとってはそれが文の欠くべからざる部分、据え付けなのだろうか。それは会話という階段を下に落ちることなしに降りることができるようにする手すりである。そして、もしこの言葉が政府によって禁じられたら、彼は話すことがなく永遠に沈黙しているだろう。さて、プラトンの虚辞は莫大なものであり、それはウェストモアランドの農民のものがそうであるように、アテネ市民には理解不能なものだったに違いない。その価値や感情に与える影響は毎日の使用や文中の位置によってもたらされるというのは本当である。英国の農民の場合がまさにそうだった。彼の用法による<程>は修飾、限定するもので、非限定的な意味と理解されるのを許すものではなかった。だが、ギリシャの接続語、不変のδε、始めに置かれるμενとδεはどうだろう。既に過去のものとなったギリシャ語をどれだけ熱意をもって直そうと努めても、実際のところδεは船乗りの<それから>wherebyと正確に同義語なのである。「それからロンドンに行った、それから盗みにあった、それから盗んだ奴を見つけた。」関係も継起も接続もすべて一つの同じ冠詞で示される。これは会話の放縦さにおいてのみ許されることである。だがギリシャ散文を<統轄する>会話精神のもっとも攻撃的なあらわれは修辞的効果を狙った散文のすべてにまき散らされている神にかけた誓いに注がれる病的なまでの精力に見いだされる。文章はチャールズ二世の治世における高貴な英国人の会話にように、「ジュピターにかけて」、「ミネルヴァにかけて」などの常套的な装飾句によって歪められる。どちらの場合も、この習慣は移行期に属するものである。もしギリシャの散文文学が後に続く作家たちによって英国のように開拓されていったとしたら、この見せかけのしるしはきっとすり切れてなくなったことだろう。これはギリシャ文学が芸術として完成していなかったことの証拠である。