ブラッドリー『論理学』44

 §58.このことから、我々はある推測を引き出せる。もし単称判断がより事実に近く、それを去ることで、実際に実在から遠ざかっているにしても、少なくとも、科学ではそうしたことは感じられない。我々を力づけてくれるもう一つの推測がある。通常の生活において、ある一つの事例から別の事例に移っても同じような態度で臨む傾向があることは我々の皆が経験することである。我々はあるときと場所において真であるものをどんなときと場所でも常に真であるととる。一つの例から一般化するのである。この傾向を根絶することのできない非哲学的精神の悪徳として遺憾に思うこともできるし、あらゆる経験に不可避の条件であり、あらゆる推論の<必要条件>(第二巻を見よ)として認めることもできる。しかし、認めるにしろ遺憾に思うにしろ、その過程をより強いものからより弱いものへ、より実在に近いものから遠いものへ向かう<試み>だとは感じられない。だが、疑いなく、それは個的なものから普遍的、仮言的なものへの移行である。

 

 §59.しかし、この種の問題は推測では解決されない。二方向に働く先入観があると言える。単称判断においては、それが<事実>であり、その判断は定言的だと言われる。形容される内容に現実の存在を認め、実在に明らかな性質を帰しているがゆえに、それが<唯一の>真の判断とはいわないまでも、仮言的判断よりは真であるとされる。これが単称判断の主張であり、この主張がある点において非常にしっかりしたものであることは否定できない。つまり、それはその内容の存在を<主張し>、直接に実在を肯定している。しかし、我々が返さねばならない答えとは、そうした主張や肯定にもかかわらず、一般的な考え方から離れて事物の真理をより近くから見ると、その主張や肯定は<間違って>おり、その発言は誤解に基づいている、ということである。我々は単称判断の主張を試験にかけてみなければならず、思うにそれは致命的なものとなろう。