トマス・ド・クインシー『スタイル』19

第三部

 

 読者は疑い始めたに違いない。「どれだけ人を待たせておくのか」と。二十世紀の間のことを書くつもりであるのに、まだ六十年しか済んでいない。「<どちらに>我々は向かっているのだろうか。どの対象に向かっているのか」どちらがどの程度緊急な問題なのか。多分、我々は不信をもたれているだろうし、(同じようなことではあるが)「白紙撤回」を受けるかも知れない。読者は疑いと御しがたさを感じていよう。父の亡霊を前にしたハムレットのように、我々がなにを求めているのか説明しなければこれ以上ついてはいけないということになろう。

 

 我々の残りの進路は──我々の方法の概略───次のようになろう。もう少しギリシャ散文文学について足を止め、それからその文学をラテンの門のなかにまで追いかけたい。<スタイル>についてのギリシャの観念はどういうものか、ローマの観念はどういうものかについてはそこから引き出されるだろう。ギリシャについて言えば、<スタイル>という語で表現されるはっきりした観念について十全に発達した意識に達していなかったということを示そうと努めてきた。この失敗を説明するために、我々は彼らの市民生活の傾向がギリシャの思弁に与えた片寄り、偏向を指摘した。<このことは>現実の実務者に不可欠な思弁的批評家の眼には重要なことである。<このことは>公的な野心が必要とされる現実の実務者には不可欠なことだった。流暢な雄弁が必要とされる政治家志望者は自分の競争に役立つだけの(そしてそれ以上ではない)知識を求める。思弁的批評家や専門的な修辞学者はその依頼者が求めるのとちょうど同じ程度(そしてそれ以上ではない)の情報を与えた。どちらも経験以上のことは開拓しようとせず、自分に示されたことが必要とされたことだった。だが、ローマでは、そしてその理由については多分しばらく立ち止まってみる価値があると思うが、より微妙なスタイルについての概念が、完璧なまで発達したとは言えないにしろ形成された。ローマ人は、ギリシャ人よりも悪い弁者であろうがそれほどでもなかろうが、確かによりよい修辞家ではある。そして、我々が証人として召喚する、異教世界における言葉の達人であるキケロは、その探索においてローマの知性は少なくともギリシャ人よりも徹底的で、いまだ見いだされていない真理に近づいていることで我々を満足させるだろう。

 

 以前にこの困難な問題の中心にあるとされたことにローマの思想家の一部がより近づいたことを示すという一般的な目的のために『雄弁について』からの一節を引用することは、我々がこの問題についてより近づく機会を得ることになる。我々は読者を柵に上げるように努め、もし可能なら促してスタイルの領域でいまだに手つかずで残っている場所に跳躍させたい。だが、読者がそれを「拒む」ことを恐れる理由が我々にあるなら、我々は彼の向きを変え、別の一角に連れて行くことになろう。拍車を微妙に操作することで運んでいくことができよう。読者を馬に、我々をそれを御するより上等なものになぞらえたことを気にしないでもらいたいが、それでも我々に拍車でもって提案する自由はあるのである。隠喩のうちになにかが生まれるかも知れない。比喩的にであれば、無礼を働くことなしに人を蹴ることができる。寓意的なことに対する忍耐には限界がない。だが、跳躍とはどのようなものだろうか。スタイルについての思弁でなされれば必ず進展が見られるような跳躍が存在する。スタイルの問題の困難について研究、瞑想するものは誰でも半ば無意識のうちに自由な運動を妨げるような障害が道の行く手にあるという感覚を持っているに違いない。極端に皮相な見解に頼らない限りはこうした感覚を避けることはできない。我々が示すこの障壁は取り除かれ、打ち壊され、あるいは乗り越えられねばならないものである。そのとき、全領域に渡る新たな地図、完璧な地図が期待されよう。そのとき始めて近隣地域の全地形を見渡すことが可能となろう。研究者の前には難しい理論があるが、少なくとも<実際的な>示唆を十分に与えることでその努力を助けることが可能となろう。このことで我々は非常に平易な、つまりスタイルの機械学に関することを伝えることができよう。その序説は簡単なものとなろう。文芸誌の一つの記事に許される分量を超えることはないだろう。その残りについては、すべてを明らかにするには、(ドイツ風に言えば)八折り版「強」が必要とされるので、我々がなすべきなのは修辞家が次に開拓し発展させることの可能な区域や部分、彼が用いることのできる力、研究することが必要な困難な部分、彼が利用できる技術に、それと関連して抵抗となる障害物、それらすべてを示すことである。このことがなされれば、スタイルと修辞学の運用が適用される好み、科学、実際的な演説の諸問題について世に流布している不整合な見取り図をもはや見る必要はなくなるだろう。公衆の眼はもはや説得力のないフランス人たち、ロラン、ラパン、バテュー、ボウェー、デュ・ボスその他<すべての種類の>、また上品ではあるが散漫なブレアーのために煩わされることはなくなるだろう。あるいは、研究対象のこのあるいはあの部分については時に鋭く、思いがけない情報をもたらしはするものの、(一般的な手引きとしては)例外なく不十分な者たちに頼る必要はなくなるだろう。修辞学の仕事とそれが適用される母国語の運用は、体系的な技術、系統だった訓練と機械的な鍛錬の対象、代数の分科あるいは幾何学の延長の科学となるだろう。だが、<このことは>スタイルに機械的な単調さを与えることになりはしないだろうか、筆跡を直そうとする惨めったらしい試みのように。見、触れ、指が汚れるのが怖いなら火箸でつまみ上げよう。それは筆跡の多様な特徴を単一で同一の形にし、<それが>ヨーロッパの筆致を堕落したものにしたのである。つまり、フランス人に蔓延しているような(串で書いたような)引っ掻き傷になってしまった。アルドリシウスが彼の名高い芸術(つまり、筆跡を人間の性格から解放する芸術)を現代の疑似書道の工場から生じた酷い走り書きに適用しようとしたが無駄なことだった。<この>体系のもとでは誰でも同じように書く。生まれついての泥棒も愛国者や殉教者と混同される。無垢な少女と荷馬車を狙う老魔女とが一緒である。この改革が世代から世代へ、罪と悲惨さのもとに積み重ねられ、ジョゼフ・ヒュームが戦争で死んだ男の娘に与えられる給付金から一年ごとに三クラウン削っていくことを承認した記名と、アデレイド女王が教会に向けて戦争の実行を認めた記名とが見分けのつかないような筆跡なのである。