幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈9

髪はやす間を忍ふ身の程     芭蕉

 

 何丸の解釈で、『伊勢物語』の「むかし心つきて色好みなる男、長岡といふところに家つくりて居りけり、そこの隣なりける宮原にことも無き女どもの、田舎なりければ、田刈らんとて、此男のあるを見て、いみじのすき者のしわざやとて、集まりて入来ければ、此男逃げて奥にかくれければ」というくだりを引いて、米を刈ることからの続きが業平の俤に似かよっているので、髪を生やすという句で三句のわたりをあらわした、というのは、考えすぎで却って間違っている。唐詩には稀に隔句対といって前々句につけることがあるが、連句ではしないことである。連句の規則は、すべて前句につけて、前々句にはつけないものである。一句の意味が前々句に通じるのは、執着輪廻の嫌がられる道で、止まって進まない、行ってまた返ることをもっとも忌み嫌うことなのに、なんで殊更芭蕉が前々句の野に米を刈るの縁を引いて、業平のことを詠じだすことがあろう。もし『伊勢物語』を引いて解釈するなら、前句の米刈りと我庵との二句の方が物語のおもかげがあるというべきである。米刈るを長岡のあたりとみて、鶯に宿かすというのは、物語のその章のなかの歌「葎生ひて荒れたる宿のうれたきはかりにも鬼のすだくなりけり」を踏まえて、鬼を鶯とし、戯言を実景として一句をなしたといえば、解釈も少しは有効に働いて、事々しく古い物語を引き合いにだした興もある。「髪はやす」の句まできて、米を刈るの句に基づき、髪を切られた業平の面影を言いだすのは愚かなことである。この句はもともと鶯に宿かすという句を受けたものである。安らかに前句をうけて、その言葉に則って人柄を思うと、もとは卑しくない人であったのになにかの理由があってこんな田舎に籠もっているものと見立てて、「髪はやす間を忍ふ身の程」と付けた。髪はやす間とは、前句の我庵とある庵の語の響きである。句の趣は業平の面影を伝えている。しかし、『伊勢物語』の業平が長岡にいたときのことではない。業平放縦でものにこだわらず、情事の過ちがあったことから兄弟らに髪を切られる伝説が昔からある。『古事談』第一に「業平朝臣盗二□□□一、(宮仕以前)将去之間、兄弟達(昭宣公等)追至奪返之時、切二業平之本鳥一、生レ髪之程、称レ見二歌枕一発二―向関東一、」とある。もとどりを切られて、人と会うこともできないので、しばらく隠れている間の業平を前句の人になぞらえて、この句を付けた。髪はやす間という言葉は、「生レ髪之程」とあるのにもとづいてその面影をみせたものである。ただ「冬の日」の古板には「思ふ身の程」とあって「忍ぶ」とはなっていないので、思の字のはじめの一画がないと忍の字のように見え、最後には諸本がみなその誤りをうけて忍ぶとしたと曲齋は論じている。惜しまれるのは私はまだ最初の板本を見ておらず、近刊本には忍ふとも思ふともなく「しのぶ」とあるだけなので、のちの再考を待つしかない。さて、思ふが真実なら、髪はやす間を身の程思ふと解釈すべきで、意味は自ずから明らかである。身の程思ふというべきなのを、思ふ身の程としたのは、句の調べなどからそうしたので、顚倒錯綜の法という。杜甫の詩の「紅稲碧梧」の一聯について、芭蕉と支考とがその法則を語り合ったということは有名であり、すべての詩歌俳句に顚倒錯綜が自在に使われているのは、調べを整えて奇抜さをだすためで、疑問に思うことはない。また忍ぶが本当なら、潜み忍ぶことだが、忍ぶでは身の程という語がやや浮いた感じがして、身の程といわないで、身とだけいえば足りる。髪はやす間を身の程おもうとあれば、身の程という語、いかにも響きがよくて、僧形を抜け、常の姿に返ろうとする者が身の程を思って、懺悔の念もあり、世俗のことも忘れられず、万感次々におき、それをただ十四字一句に言い取ったところになんともいえぬ面白さがある。ただ、思ふではなく忍ぶ身の程であるのか。同じこの集のなかに、「忍ぶ間の業とて雛を造り居る」という句があり、忍ぶという語の使い方が非常によく似ている。