ブラッドリー『論理学』46

 §62.我々に与えられる事実は感覚にあらわれる複雑な性質と関係の全体である。しかし、我々がこの所与の事実について主張し、主張できるのは、観念内容でしかない。我々が用いる観念が目の前にある個物のすべてを汲みつくすことができないのは明らかである。我々みなが知るように、記述は直接の現前の瞬間全体に渡る多様な陰影、感覚的な財を完全に描き出すことはできない。判断を下すやいなや分析を余儀なくされ、識別を余儀なくされる。所与のある要素を他の要素から分けなければならない。感覚に全体としてあらわれるものを分け隔てる。判断に取り入れられるのは任意の選択以上では決してない。我々は「狼がいる」、「この木は緑だ」という。しかし、こうした貧弱な抽象、剥き出しの意味は我々の見る狼や木よりも遙かに劣る。それは我々がそこから狼や木を分け、内的な質量や外的な状況に及ぶ多様な個物全体にも足りない。実際にあらわれる実在がX=abcdefghだとするなら、我々の判断はX=aかX=a-bでしかない。しかし、a-bそのものは決して与えられてはいないし、あらわれてもいない。それは事実<のなかに>あったもので、我々がそれを取り上げている。それは事実に<関する>ものであって、その独立性は我々が与えている。我々は所与を分離し、分割し、縮小し、切り裂き、切断している。*そしてそれを任意に行なっている。我々は自分で選んだものを選択しているのである。しかし、もしそうなら、分析判断はすべて事実を変更せざるを得ないものなら、どうしてそれは真実であることを主張できるだろうか。

 

*1

 

 §63.こうした答えが返ってくるのは疑いない、「それは無駄な詮索だ。判断は知覚全体を写し取るものではないが、なぜそうである必要があろう。それが言い、写しているのはいずれにせよそこにあるものだ。事実は事実、所与は所与である。判断によって切り取った以外のものがあるからといって、事実や所与がそうでなくなりはしない。抽象的な狼が完全な形で与えられていないからと言って『狼がいる』というのが誤りだと主張するのは、非常識で滑稽である」と。

 

 ここで議論をやめてしまう読者もいるのではないかと私は恐れる。しかし、あえて先に進もうとする読者には、事態が馬鹿げて見えるのは、問題自体が不条理であるためではなく、凝り固まった先入観と衝突するためなのだと示唆することが勇気づけになるかもしれない。我々がこれから扱おうとしているのはこの種の先入観の一つである。

*1:

*ロッツェの『論理学』の見事な章II.VIIIを参照。