幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈10

偽のつらしと乳を絞りすて     重五

 

 一句の意味は、乳児がいる女がどんな理由によるのかその子はいまは自分の手もとにはなく、朝夕に張る乳房をどうすることもできず、無駄に乳を絞り捨てて、これも人の情けが自分には届かないためだとつれなさを悲しみ歎く様子で、その様子は自ずから明らかである。前句とのかかりは、曲齋によると、嫉む人のために偽られて、身におぼえのない疑いをうけて子供を取り上げられ、張った乳房を絞るたびに、子を思い自分の身を思い、偽った人間を恨むのだという。偽りとは、自分と男の間を嫉む者が、偽りをつくりだし、讒言をなしたと解釈したのである。何丸が引用した一書の解では、窃かに囲われた妾などが、間違った疑いをうけて髪を切られ、その上幼児まで引き離された女のおもかげが見えるという。妾というところが曲齋の解釈よりくわしいが、間違った疑いということでは、人の讒言を入れて、詐術をもって追いだしたと見なしている。二つの解釈はあたっているかもしれない。しかし、前句の「髪はやす間を忍ぶ身の程」というのを、女にしたのはいいが、偽りというのを讒言した者の悪巧みとするのは面白くない。「つらし」という言葉に気をつけるべきだ。讒言した者のために髪を切られ子供を奪われたなら、「いつはりの憎し」とでもあるべきだろう。つらしというのは、人の自分に対する情けがなく、自分で自分を悲しむもので、恨み憎むとは少々異なっている。前句の「髪はやす間の身を忍ぶべき」ものを女と見立てるのは問題ないが、忍び妻でもなく、妻でもなく、忍び妻や妻が間違った疑いをうけて髪を切られるほどならば、子を引き離し取り上げられることは少なく、子と一緒に捨てられてしまうだろう。古い解釈の情理のおぼつかいことを見るべきである。ためしに別の解釈をしてみれば、これは立派な家の美しい下女などであろう。身辺のことをさせている下女の美しいのを、いつ頃からか手をつけて、包み隠すこともできなくなり、主人も妻の手前、世間の評判などを思って困り切っているところで、妻がそれを知って大いに妬み憤って、子供は主人の種であるから引き取って自分が育てよう、女は自分を侮って主の男を奪う憎らしい奴だと、無理矢理髪を切って罪を罪を贖わし、追い放つことなど珍しくはない。心が優しい妻なら、髪を切らすまではしないだろうが、自分に子がなくて他の女に子ができたときなどは、主の力が強かった世にあっては、主人の妾などになって後々自分の地位を危うくするのではないかという怖れと怒りから、世間にも顔向けできず、男の思いも断ち切ってしまおうと、罪を責め、髪を切らせるようなこともないことはなかった。男は女と契るときには、どうこうと行く末を請け合って約束するが、こうなっては自ずから遠ざかるものなので、こんな目に遭った女の悲しさはどんなものだったろうか。前句の「髪はやす間を忍ぶ身のほど」にある女をこう見立てて、「偽のつらしと乳を絞りすて」と付けた。「偽のつらし」は、つまり男の偽りのつらさである。はじめは身を慎み、分を守っていたが、主の威信と情にほだされて拒みきれずこうなったのに、それもいまは偽りとなって、できた子にも離れて乳を絞る味気なさにあわれがある。「偽のつらし」は、讒言をした人を憎むのではなく男を憎むのであることを、よくよく語気を考えて悟らねばならない。私にしても強いて異を立てて人に逆らっているわけではない。