ブラッドリー『論理学』47

 §64.ごく一般的で、破滅的とも言える迷信は、分析は対象になんの変化ももたらさず、識別がなされるときには、分割可能な存在が扱われているのだと仮定することにある。ある事実の全体があるとき、そのある部分が残りとは関わりなく存在できると結論するのは計り知れない結果を生む推測である。心的な区別と外的な実在についてのこの素朴な確信、思考と存在との露骨な同一性についての悲壮なまでの信頼は経験の名の下に喧伝されている学派にとって価値のあるものである。ヒュームによって大胆に宣言された(第二巻第一章§5参照)間違いと錯覚についての主要な原則は、この学派によって伝統的に実践されており、あまりに深く信じられているので、議論もできないし原則として認めることすらできないのである。事実に対する忠誠に異議を申し立てることは差し出がましいことで、自己正当化された無垢と図々しさという美徳によって致命的となる公然とした攻撃から守られていた。ある意味において(私もそれを否定しはしない)思考が最終的には事物の尺度であることが正しいなら、我々が全体のなかで行なう分割が、その存在を他の存在に依存して<いない>ような要素にすべて対応しているというのは少なくとも誤りだろう。複雑なものを取り上げ、分析によって好きなだけ手を加え、そうした我々の抽象の結果を所与を形容するものとして捉えるのはまったく正当化しがたい。そうした産物は決してそうしたものとして存在するものではなく、そうであるかのようにするのは事実を欺いている。部分の総和としての全体という「経験」学派が嬉々として現象をねじ曲げる粗雑な考え方は実際の経験に常に当てはめることはできない。解剖によって得た結果を生きた身体に適用できない生理学が間違っているなら、ここでの問題は更に果てしなく悪い。我々に与えられる全体は知覚と感情の連続的な固まりである。この全体について、その一要素が残りと切り離したとしてももとのままだとするのは、非常にゆゆしき発言である。それは自明ではないと思われるし、あからさまな不合理に陥ることもなくそれを否定することも可能である。*

 

*分析と抽象の一般的な妥当性については第三巻を見よ。

 

 §65.脇道にそれることになるが、いま考えたような誤りから生じる二つの錯誤の例を挙げてみよう。「心の<構成要素>はなんであるか」と尋ねるとき、我々は全体を感情の要素に分解している。しかし、そうした感情の要素だけでは「構成要素」のすべてではないので、諸関係の存在を認めざるを得ない。しかし、それによって我々は動揺しはしない。間違いではあり得ないいまの考えを更に推し進め、もちろん、他の要素とは異なる要素がまだあるが、<それですべてだ>と答えよう。しかし、異なった教育を受けて心がねじ曲がってしまった懐疑的な読者が、それが意味する観念を形成してみようとすると、途方に暮れることになる。もし要素が一緒に存在していなければならないならば、それらは互いに関係していなければならない。そして、もしそうした関係も要素であるなら、その要素は元々の要素と再び関係をもたなければならないだろう。AとBが感じであり、Cがその関係であるまた別の感じだとすると、構成要素が互いに関係することなく存在することができるのか、あるいは、CとABとの間に<新たな>関係が存在すると仮定しなければならない。この関係をDとすると、再びDとC-ABの間に関係を見いだし、以下無限に続く過程に着手することになる。関係が諸事実の<間>にある事実なら、関係と事実の<間>にはなにがあるのだろうか。本当の真実は、一方に要素があり、他方にその間の関係があるというのはまったく現実的ではないことにある。それらは単一の実在のなかで区別だてをする精神の虚構であり、それを独立した事実とみなすよくある間違った錯覚である。名高い教授‡の言葉を信じるなら、この不合理で不可能なことに対する強烈な信念は、かつては神学の特権であり、自慢の種だったが、いまでは実験室の聖なる区域以外のどこででも手にはいるようになってしまった。そうした楽観的な結論を採るのは困難ではないかと私は心配している。

 

 

‡ハックスレー『ヒューム』52,69頁を見よ。