幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈11

消えぬ卒塔婆にすご/\と泣く     荷兮

 

 消えぬ卒塔婆を、卒塔婆の文字がいまだに消えないと解釈するのは、何丸があげた一書の解で、現実として読んでいる。鶯笠が解して、失った子供の面影が眼に残って、死んだのも本当とは思われず、もしかしたら夢ではないか、夢ならば眼前にある卒塔婆も消え失せるだろうに、消えないのは本当に死んだので夢ではなかったのだと母親の深い愛情をあらわしている、といっているのは、虚構として読んでいる。虚構として解釈すべきか、現実として解釈すべきか、曲齋は虚構に傾き、何丸は虚実は聞く人に任せると言った。鶯笠の解も面白いが、現実と解して、卒塔婆の文字がなお鮮やかに、何々童子とか何々孩子とあるのに、我が子は消えて無く、その対照が目に痛く胸に応えて泣くのだというのもないことではない。夢かと思ったら現実だったのを悲しむというのは、深読みしすぎである。前句の「偽りのつらき」を、この世はすべて仮のもので現実ではなく、夢幻のようだと、子を失って偽の世を悲しむことに見るのは、一致した解釈で、異論はない。子供を亡くして乳房が張ることのむなしさに悲しむ女のことを詠んでいる。