ブラッドリー『論理学』48

 §66.そして、もう一つの例が、科学によって純化された精神がいかに正統的なキリスト教と合致しているか示すことになるのをご容赦願いたい。宗教的な意識では、神と人間はつながりをもった要素である。しかし、経験をふり返ってみれば、我々は区別をし、上述のように要素へと分ける分析の結果を確かなものだとする。かくして、一方には神という要素があり、他方に人間という要素がある。そしてその関係について頭を悩ませている。関係はもちろん<別の>要素でなければならず、それらを仲介する別のなにかを探すこととなり、それと最初にあるものとの関係も見つけねばならない。我々は再び無限の進行に入り込むのであって、それが多神教であっても、問題に変わりはないのである。

 

 §67.分析判断に戻ろう。「狼がいる」と言うとき、実在する事実は、個別の環境と、感情、情動、思考において個別な条件にある内的な自己と関わる他のものとは似ていない個別の狼である。また「歯が痛い」と言うとき、事実は、ある瞬間における私の知覚と感情を伴ったある歯の個別の痛みである。問題は、私が全体の断片から判断を作り上げるとき、それを実在の述語とし、「それは<現にそうであるように>感覚の事実である」と主張する権利があるかどうかである。分析判断が<いかなる>意味でも真ではないと言おうとしているのではない。それでもって所与の事実として内容の存在を主張しようとするなら、正当とは認められないと言っている。いったいどんな原則でもって、現前する全体から好きなものを選択し、その断片を現実の性質として扱うというのだろうか。それが自律的に存在して<いない>ことは確かであって、それだけを取り出したときに、どうしてそれが<この>実在の性質であり<得る>と知るのだろうか。感覚される現象は現にあるものでそれがすべてである。それ以下のものはきっと<なにか>別のものであるに違いない。真理の断片というのは、、それが全体を性質づけるものとして用いられると、完全な誤りとなるのである。