ブラッドリー『論理学』49

 §68.分析判断は<それ自体で>真なのではない。それは独立して存在することはできない。個別の現存を主張することには常にそれ以上の、主張されている断片からはこぼれ落ちる内容が仮定されていなければならない。主張されていることは、他のものがあってのみ真となる。言われている事実は残りの文脈との関わりにおいてのみ、残りの文脈があることによってのみ事実である。そうした条件がなければそれは真ではない。それゆえ、我々は実際には条件づけられた判断を手にしているのであり、それを定言的と捉えることは間違っている。定言的であって真であるとするには、判断のなかに条件を繰り込まなければならない。所与を、省略も変更も切断もない実際にあらわれる通りのものとして取り上げなければならない。それは不可能である。

 

 §69.観念は感覚的知覚には適切でないこともあるが、こうした障害の他にも更なる難点がある。所与のなかにあらわれる実在はそこに限定しておくことは不可能である。外面的な境界のなかでも、その性格は空間と時間で無限の進行を生じさせる。単純なものを探し求め、我々が最終的に見いだすのは複合的で相関的なものである。外面的な境界そのものが流動的である。それは時間、空間の外部に永久に流れ込んでいく。我々の見る現実の光が限定された領域をしか照らさないことは確かである。しかし、要素の連続性、文脈の完全さがこの照らされた部分自体で実在だと我々が言うことを禁じる。内容の自身とは別のものへの関係は内的な性質の奥底にある。それは自ら自分が形容詞的であり、外部と相関的だと宣言している。それが自律的な存在をもつと主張しようとすると、その本質を破壊することになる。空間と時間は「個別化の原理」だと言われてきた。それらは相対性の原理だと言った方が真実に近いだろう。それらは実在を制限すると同時に拡大する。

 

 私は過去と未来が実際に与え<られ>、現前としてあらわれるのだと言っているのではない。それらは所与であり得ないにも<かかわらず>、所与はその不在によって破壊されるだろう、と言っているのである。もし実在が過去や未来とともにあるのなら、それは所与ではないだろう。過去や未来なしにあるなら、それはいつまでも不完全で、それゆえに非実在であろう。端的に言って、現前する内容はその現前と両立しない。矛盾を含み、それによれば非実在であると言うことができる。ここは素直にこれに従い、不可能な帰結によって進行する病に堪え忍んだほうがいい。