ブラッドリー『論理学』50

 §70.現前の知覚に与えられるものの一部分を実在だとすることはできないことをみてきた。更に進まねばならない。現前する内容すべてを性質づけることができたとしても、過去と未来をそこに組み込めないなら、それは再び失敗であろう。現在が過去とは独立に存在し、拡がり全体のうちの一つの断片が自律してしていて残りと何の関係ももたないとは仮定することはできない(あるいは、少なくとも私はどんな権利があってそうした仮定をするのかわからない)。判断が真であり定言的であるためには、そのなかに完全に条件が組み込まれていなければならない。ここでの条件は、所与を完全なものにするための空間と時間の全拡がりである。それは克服できない難点である。観念は感覚の諸事実を写し取ることができない、というだけではない。我々の理解には限界があり、全系列を知ることはできないし、我々の力はかくも広大な対象を捉えるには不十分だ、というだけではない。どんな精神であっても、空間と時間の完全な系列を描き出すことはできないのである。というのも、もしそれが行なわれるなら、無限には終りがあることになり、有限であると理解されるからである。それはあり得ない。単に心理学的に考えることができないだけでなく、形而上学的に不可能なのである。

 

 §71.かくして、分析判断はすべて虚偽であるか条件づけられている。「<条件づけられている>というのは疑わしい言葉だ。結局のところ、それは仮言とは同じではない。事物は仮定によって条件<づけられ>もするし、事実によって条件<づけられ>もする。ここには『もし』と『なぜなら』の間の相違がある。ある発言が別の発言の真実の結果真であるなら、両者は共に定言的である」と言われるかもしれない。この区別の重要性は私も認めるし、それについては後で考えなければならない(第七章§10)。しかし、いまの議論との関わりではそれを否定する。

 

 この異議は次のような主張に基づいている。「現象の系列において、すべての要素がそれぞれ残りの自分以外の要素と関係しているにしても、判断は定言的であることができる。自分以外の要素は、判断に組み込むことはできず、結局それがなんであるか知ることができないし、思考のなかにあらわすことはできないが、にもかかわらずそれは事実である。そうであるなら、発言は真である。というのも、それは「もし」ではなく「なぜなら」に基づいており、それはまだ知られていないにしろ、実在であるからである。分析判断の相対性、形容詞的で依存的な性格を認めたとしても、何とかなり、定言的なままだろう。」

 

 しかし、この主張を認めることは不可能である。決して実現化されない「なぜなら」、心にあらわすことのできない事実について反対するつもりはない。私の異議はより致命的である。いまの場合、一つもなぜならなど存在し<ない>し、事実も存在し<ない>のである。

 

 我々は鎖によってしっかりと固定され、安全が保たれているか知りたいと願う。我々がすべきことはなんであろうか。しばしば言われるのは、「我々を固定するこの環はしっかりしている、次の環にしっかりとつながっているし、それも次の環と固く結びついているように見える。ある程度の距離から向こうは見ることができないが、我々の知る限りしっかりと結びついている」ということではないだろうか。実際的な人間ならばまず「鎖の最後の環はどこにあるだろうか。それがしっかり固定されていることを確認してから環のつながりを確かめよう」と言うだろう。しかし、鎖というのは新しい環にいくごとに更に新しい環につながっている。そして、どれだけ遡ってみても、すべてがそれに依存しているような最終的な環に近づくわけではない。現象の系列は相互に関係しあっており、それだけで絶対的なものとなることは決してあり得ない。その存在は自身を越えたものと関係しており、そうでなければ存在することをやめてしまうだろう。最終的な事実、最後の環は単に我々の知ることのできない事物というのではなく、実在ではあり得ない事実である。我々の鎖はその本性上、支えをもつことができない。その本質は、最終的には固定を排する。我々はそれが宙に支えもなくかかっていることを恐れるどころか、そうあらねばならないことを知るのである。終端に支えがないのであれば、残りにも支えはない。それゆえ、我々の条件<づけられた>真理は、単に条件<的>なのである。それは公然と事実ではないものに依存し、定言的に真なのではない。自律したものではなく、仮定から生じている。あるいは、恐らくは更に悪い結果、何ものにも支えがなく、すべてが一緒に崩壊するという運命を待っているかもしれないのである。