幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈14

田中なる小万が柳落つるころ  荷兮

 

 伊勢国山田の近くの浮洲に小万の柳がある、とあり、小万柳は摂津国田中にある、昔から伊勢の浮洲と説いているのは杜撰であるといい、そうではない、淀川筋に田中という地名はない、などと古来の注釈家は言い争っている。強いて論じるまでもないことだが、俳諧は地名人名と膠でつけてできるものではなく、地名人名を手玉にとってするものである。田中は田の中であってもいいし、地名の田中でもよく、それは地名の田中が田の中からでき、山中は山の中から起きる名であるようなものである。小万は村里の遊女などによくある名であり、例えば関の小万のようなものである。この句は平明で、難しいところはない。古い解釈に、諺に柳に雪折れ無しというが、ことに大きな小万の柳も、秋になると重さに絶えかねることがあるので、前句の家の落ちぶれたのも驚くにはあたらないと洒落たのだというのは、解釈の親切が行き過ぎているといえる。前の数句は、険しい山々が重なり、谷を走る奔流がたぎるようなものであり、から家よりこの句にいたって、山がようやくなだらかになり水もまた緩やかになったようなものである。ただ寂しい秋の日に、田舎で戯れに名をつけられた柳のはらはら散るころと、あれた家が見えるあたりの時節景象をいったまでである。安らかで鋭くも重くもない句であるから、安らかに穏やかに解釈すべきである。