ブラッドリー『論理学』51

 §72.もちろん、これは単なる形而上学だと言えよう。所与は所与であり、事実は事実である。いいや、我々は個的な判断と仮言的判断とを、前者は知覚にかかわり、そこに主張されている要素の存在が認められることをもって区別している。そうした区別は、あまりに微妙な雰囲気のなかに溶け込んでしまうので、無視すべきではある。しかし、私はこの区別を撤回したくはない。これは思考のあるレベルにおいては適正である。論理的探求の通常の目的にとっては、総合的および分析的な個々の判断は定言的であり、ある意味普遍的判断に対立すると捉えた方が便利であろう。

 

 しかし、論理学の諸原理に更に踏み込み、判断のクラスがそれぞれどのように関連しているかを考えざるを得なくなったとき、上述のような疑問を掲げないとしたら、我々が間違っているのは確かである。我々が区別の基盤をもっていると知っただけでは十分ではない。それが<真の>基盤であるか尋ねなければならない。それは区別する地点以上のものではないか。それはまた事実ではないのか。概念内容を照らしだす現前の光は、我々がそれを写し取ったときにもその真実性を保証するのだろうか。現前する現象、現象の系列は実際の実在であろうか。そして、いずれの問いの答えも否定的であることを我々は見てきた。感覚に与えられたものを判断においてとらえることができたとしても、我々は失望するだろう。それは自律的ではなく、それゆえ非実在であり、実在はそれを現象の無限の過程において越え、それと共に消え去ってしまう。(言うならば)知覚においてあらわれる実在は、現象でも現象の系列でもない。

 

 §73.「それは反省の産物に過ぎない。我々にあらわれる通りのものを事実ととって満足すれば、それを感じたままにしておけば、我々は失望することはない。過去からの宙に浮いた糸によって支えられることもないし、幻影的要素の途絶えることのない関係の消え去りゆく網の目のうちに滅ぶこともない。感覚にあらわれる実在はそれ以上のものではないのである。それは自律しており、個的で完全、絶対的にして定言的である」と言われるかもしれない。ここではこの発言を論駁しようとは思わない。我々は所与が知的な改変なしに与えられたのか、我々に観察し見ることのできるものは我々が既に干渉したものではないのかについて答えるよう求められているわけではない。ここでそうした問題を取り上げる理由はない。また我々は有能な形而上学者よろしく、理性に心酔し、感情を軽侮しているのでもない。失意の感情が感覚の真理に対する反抗の先頭に立つと論じることにためらいを感じるものでもない。ずるがしこい頭に最初のいぶかりの声を上げるのは悩ましい心だった。

 

 お望みなら、我々が感じる通りの実在が真なのだと言ってもいい。しかし、もしそうなら、<すべての>判断は間違いであり、あなたの単称判断は眠りにつくだろう。我々のいまの目的ではあなたの主張を認めてもいいが、それが我々への異議として申し立てられているなら、質問を返したい。それがどうしたというのか。そう言っているのは誰なのか。こうした非難をできるほど誰が反省という罪から自由であると自負しているのか。言ったことの結果を考えないような人間は確かにいる。拙劣な分析と独りよがりの形而上学が詰まった本を書く作家もいる。「経験」に情熱を燃やす思想家が自分の一面的な理論に自負をもち、感覚される事実への忠誠心がそれを未消化な反省の結果と区別できなくしていることもある。

 

 現在我々に仮定され、形而上学が論じるだろうことは、現象とは<最終的に>我々が考えざるを得ないものであり、我々の思考の<最後の>結果は真であるか、そこで我々がすべての真を手に入れるかということである。実在にとって確かな根拠となるのは反省の始まりではなく終りである。我々の心はそれ以上のことを決することはできない。実在についての我々の思考は、分析判断のレベルにとどまっている限り批判に耐えられないだろう。我々が信じずにおれないのは、後の、よりよい反省の結果、少なくともこの判断は真でないことが確証されることにある。現象の系列の全体や部分を実在の性質と主張することは間違った主張である。