トマス・ド・クインシー『スタイル』26

 もし亜鈴のことをご存じなら思い起こしていただきたいが──ご存じないなら我々がお知らせしよう──鉄や鉛でできた円筒状の両端に同じ金属の球がついており、通常は緑のベーズで覆われている。だがこの覆いは、不実にも、我々の信頼しがちな指を三度に一度は引きつらせる胸の痛くなる負担を否定したり隠そうとするものではない。ところで、我々はターテル氏、ウェア氏の殺人で告発されているのと同一人物だが、彼が暗い広間で、亜鈴を使って友人を殺そうとした。友人を殺そうとするときに下した彼の判断、つまり道具の選択において彼は責められるべきである。亜鈴のイメージによって我々はある寓意をほのめかしている。両端についている球はギリシャ文学の二つの系、二つの集団である。そしてそれを結びつける円筒で、二つの系を駆け抜け、結びつけた人間がいる。誰か。イソクラテスである。良心において我々は彼を<偉大>であるとは言えない。それ故、一種の妥協案として彼を<長大>なと呼ぼう。ある意味で確かに彼はそれにふさわしい。というのも彼は四年ごとに行われるオリンピックを二十四回経験している。彼が百年以上生きたことはほぼ間違いない。二つの系はそれぞれに十年程続いたと思われ、百年といえど彼が二つの系の中心から中心に行くまでには至らないが、実際には彼はギリシャ的天才の総体を形づくる二つの系を十分個人的に(そしてどちらも同じくらい)知っていた。二つの系を知っていることがこの男をして後代にとって興味深い人間としている。その性格において最もかけ離れ異なった人間(例えばキケロとミルトン)が共に彼の回想に喜びを見いだしている。アテネの修辞学は、ユスティニアヌス治下まで下ることはなかったが、中断することなく九四〇年続いたこの学派は<彼>に始まった。『雄弁について』でキケロは彼を「雄弁の父」といい、至る所で「論弁の共通の師」と呼んでいる。確かに彼は実践の方はまったくで、二つの理由を挙げている。自ら語るところによると「肺が弱い」、そして第二には「私は本性上、また主義としての臆病なのである。」彼は正しい。この男はデモステネスやキケロがしたように怒鳴り立て「やじる」ために二十四度のオリンピックに行ったことは決してなかった。この長大な人の人の関心を引くもう一つの特徴はまさしく彼が長生きで<あった>ということである。マケドニアの若き王子アレキサンダーペルシャに出発する四年の間見て、ペリクレスの集まりに光栄にも預かることを得た者たちのほとんどを親しく知っているこの白髪の男にはみんな親切なまなざしを投げかけたのである。従って、ミルトンが感動的なものとして讃えたのはこの長さの質である。ミルトンのソネットではイソクラテスは「雄弁なりし老人」で、カイロネイアの戦いの「自由に致命傷が与えられたという報告で殺された」のである。フィリッポスがギリシャの独立を死に瀕しせしめたこの戦いは紀元前三三八年に起こった。フィリッポス自身も二年後に暗殺された。結果的には、イソクラテスは天然ゴムや印度ゴムのように少々命を延ばして、銀の楯、マケドニアの護衛兵がペルシャに船出するのを見ることができた。「自由に致命傷を与えた」戦いから五年もたたないうちにアレキサンダーペルシャの自由に致命傷を与え、ダレイオスの「破滅を誘った」のである。二つの長征、ペルシャの小キュロスの進軍とアレキサンダーの進軍の間にはちょうど七十年の間隔がある。だがイソクラテスは双方の将校と<知識人>(注1)の多くを知っていた。

 

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 キケロやミルトン以外の者たちもイソクラテスには深い関心を寄せている。それは我々が気づいた状況、彼の生の<長さ>、しかもそれがギリシャの二つの文学を偶然にも結びつける位置にあったということである。ペリクレスというオアシスとアレキサンダーというオアシスの間の荒涼とした砂漠に「長さ」があったことは彼にとっては至当なことだが、それが我々にもたらすものはなんだろうか。「ゆっくりと這う蛇」、アレキサンドリア詩は有意義なものであったろう。だが彼は自らが欲せられていると感じるところ、自分が役に立つことのできる場所に線路を引き、それはペリクレスに対しては積極的、アレキサンダーに対しては消極的だった。ギボンでさえ、あの冷淡なギボンでさえ彼の時宜にあった生没には満足を感じないわけにはいかなかった。四十章で彼は言う「人間本来の尊厳についての我々の感覚はイソクラテスプラトンやクセノフォンの仲間であり、恐らくは歴史家ツキディデスを助け、ソフォクレスオイディプスエウリピデスのイフゲニーの最初の公演に立ち会ったことを思い起こしただけで高められる(注1)のである」と。この長大な男の発端についてはこのように書かれているが終端についてギボンはこう続ける。「そして彼の弟子たち、アイスキネスとデモステネスは、テオフラストスの師アリストテレスの前で愛国者の<栄冠>を争ったのだが、そのアリストテレスアテネで教えストア派エピクロス派の基礎をつくったのである。

 

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*1:

(注1)「将校と<知識人>」──最初の長征ではクテシアスが後者で、クセノフォンは両者を兼ねていた。彼らはイソクラテスの友人である。後の遠征では、将校であれ<知識人>であれ、イソクラテスの友人で<ない>ものを見つけるのは困難である。彼のような老人はギリシャでは非常にまれなものだった。長寿について残っているギリシャの証言から明らかな事実であるが、七十を越えることは滅多になかった。それ故、イソクラテスの長生きというのはその晩年の二十六年間彼をアテネの花形とするに十分だったに相違ない。七十の後半では彼の修辞学はギリシャの上流家庭のすべてに行き渡っていたに違いない。我々を悩ます一つの疑問がある。彼はお金をなにに使ったのだろうか。というのも大量にもっていたに違いないからである。彼は二つの価格を使い分けていた。そしてそれが可能な者には高い請求をした。当然のことではないか。人は価値のないおしゃべりの技術を学んでいるのではないのである。だが、絶対禁酒者にして臆病者である彼はどう金を使うことができたのだろうか。この問題は悩みの種である。それはともかく、この長大な男のもつ一つの可能性が彼を興味深い存在にしている。彼はクセノフォンがキュロスの進軍からの帰途トレビゾンで盗んだ馬から降りるのを見た可能性がある。そしてまたアレキサンダーがカイロネイアに進軍するのも見たかもしれないのである。アレキサンダーは戦いに参加し、個人的に騎兵の突撃にも加わった。彼がブケパロス{アレキサンダーの軍馬}に乗ったことも不可能ではない。

 

*2:(注1)「高められる」──ギボンの論理は曖昧に思える。イソクラテスが若いときにはプラトンエウリピデスの仲間で、年取ってからはデモステネスの仲間であることがなぜ人間の尊厳についての感覚を高めることになるのだろうか。それを理解するにはこの前の部分でギボンがアテネを「一人の生涯程の時間に、世紀の、数万人に一人の天才たちが凝縮されている」都市だと言っていることに言及する必要がある。凝縮が尊厳の測りであり、「一人の生涯」としてのイソクラテスは凝縮の測りなのである。それがこの場所の論理である。ところで、ギボンは<章>によって引用されるべきである。頁や巻数というのは出版形式の違いによって異なるはかないものだが、章は<いつでも>役に立つ。十二巻という最も一般的な形が特殊な巻数のものに対するガイドとして二次的には有益である。そこではそれぞれの巻にほぼ例外なく六章が含まれている。つまり、四十章は六の集まりの七つ目であるから、第七巻に含まれている。