ブラッドリー『論理学』52

 §74.実在は感覚に与えられ、現前している。しかし、既にみたように(§11)この命題を転倒し、現前し与えられたものはすべて実在である、と言うことはできない。現前は単に我々にあらわれる空間と時間における現象の部分ではない。単なるあらわれと同一のものではないのである。現前とは我々と実際の実在との接合である。存在する事実として感覚知覚の要素を受け入れることはある種の接触ではあるが、唯一の接触法ではない。

 

 仮言的判断には、実在は与えられているという意味がある。というのも、我々は諸要素の関わりのうちに現前を感じ、実在にその性質を帰するからである。現前から我々は要素を取り上げ、それを事実として受けとるわけではないにもかかわらず、仮言的判断は最終的には直接の現前に依存しなければならない。実在の財物を保持できるのはその総合だけで(§50)、その総合の基盤となる知覚において我々は実在と直接に接する。この接触が分析判断の支えとなるものより直接的であるかどうか問おうとは思わない。しかし、いずれにしろ、より真であるとは言うことができる。真理とは究極的な実在において真であるものだからである。超感覚的な究極的性質について主張できることは多くないが、いずれにせよ、その主張は間違っていないように思える。他方、感覚の分析判断について定言的に主張されることは真ではない。それが主張する概念内容は我々の知る限り実在ではない。この意味において、個的な判断に希望は残されていない。

 

 §75.その主張を和らげ、仮言判断に対する優越をあきらめ、自ら条件的でしかないことを認めようとしない限り希望は残されていない。しかし、彼は前途に待ち受けている降格をまだ知っていない。そこで次のように、「自分が定言的でないのは確かである。私の概念内容は条件づけられており、『なぜなら』が私の手のなかで『もし』のまわりを回っている。しかし、少なくとも、私は抽象的な仮言よりはすぐれている。というのも、それは要素が実在であるとさえ認められておらず、系列の残りの条件に従っているのに対し、少なくとも私の概念内容は事実であると認められているからである。つまり、少なくとも私は存在を主張できるし、私の立場を維持するのである」と言うかもしれない。

 

 しかし、この主張は錯覚である、というのも、もし個的な判断がこのようにして仮言的になるなら、その概念内容について<いかなる>存在も断言されないからである。もしそれがなされるなら自己矛盾であるが、このことを説明してみよう。

 

 定言判断の概念内容a-bは実在の存在に直接に帰せられた。抽象的普遍的判断a-bはaにもbにも、またその実在との関係にも帰せられない。それはある性質xに帰せられるだけである。問題は、定言的なa-bが仮言的なものに変わったとき、a-bはある条件下にいるにもかかわらずまだ存在を要求できるのだろうか、あるいは、存在を無視した普遍的なa-bにならなければならないのだろうか。後の場合であれば、単に「aが与えられたときb」ということになる。しかし、前者の場合だと、「<別の>なにかが与えられたとき、a-bが存在する」ということになる。この主張の錯覚はさほどの間違いには思われないが、自滅的であることを示してみたい。

 

 ドロビッシュ(『論理学』§56)は、ヘルバルト(Ⅰ.106)に従い「Pが存在する」という判断を「なにかがどこかに存在するとき、Pが存在する」と翻訳する。私はこの翻訳が不正確だと考える。というのも、暗黙のうちになにかが存在することを仮定し、それゆえ実際にはいまだ定言的だからである。もし我々がこの翻訳を感覚の事実に適用するなら、そこで実際に仮定されているのは他の現象の完全な系列であり、翻訳は「もし<他のすべてのもの>が存在するなら、Pが存在する」とならなければならない。しかし、この主張は自滅的であり、既に見たように(§70)「他のすべてのもの」が実在する事実であることは決してあり得ない。それゆえ、存在の仮言的な主張は存在できない条件に依存していることとなる。ところで、誤った仮定の結論が間違いでなければならないというのは真ではない。しかし、不可能な基盤が存在の唯一の条件だとされたとき、遠回しにではあるが存在が否定されていることは確かに真である。前に見たように、個的な判断は定言的だと捉えられたときには誤りだった。そしていま、仮言的に捉えた場合、肯定ではなく否定が、あるいは少なくとも否定の方が真だと示唆されるのを見た。