ブラッドリー『論理学』54

 §78.科学の実践は我々の長きにわたる分析がもたらした結果を認めている。科学で一度真であったものは永久に真である。科学の対象は瞬間瞬間の知覚が我々にもたらす複雑な感覚される現象を記録することにはない。これやあの要素が与えられたときにはなにかが生じるという普遍的に妥当なことを言うために、概念内容のつながりを得ようとするのである。そうした抽象的な要素を完全な形で発見し、高次のものから低次のものへと配列するよう努めるのである。前に使用した用語を使うなら、科学の目的とは「これ性」を一掃し、所与を抽象的な性質の観念的総合として再建することにある。その始めから、科学は観念化の過程である。そして、実験は、遙か昔にヘーゲルが語ったように、事実を一般的な真理に昇華させるがゆえに観念化の道具なのである。

 

 一般的な生活でも科学でも同様に、判断は最初は新鮮な事例に適用される。それは始めから普遍的な真理である。もしそれが本当に個別的なもので、それが生じた事例に完全に限定されるなら、使用が不可能で、なかった方がよかったことになろう。個別の判断でしかないものなど実際には存在しないのであり、もし存在しても、まったく価値がないであろう(第六章と第二巻参照)。

 

 §79.そろそろいままでの苦難に満ちた探求で得た結果をまとめるときである。もし我々がある主張の究極的な真理を考えるなら、我々の見る限り、ありのままの定言判断は完全に消え去ってしまう。個的と普遍的、定言的と仮言的の区別は破られてしまう。すべての判断は定言的であり、実在を肯定し、そこにある性質の存在を主張する。また、すべては仮言的であり、そのうちのどれ一つとして実在の存在にその要素を帰することができない。すべては個的であり、総合の基盤を形づくるこの性質を支える実在そのものが個体であるからである。またすべては普遍的であり、主張される総合は個的なあらわれを提供しつつそれを越えている。それらはすべて抽象的であり、文脈を無視し、複雑な感覚の状況を取り除き、性質を実体化している。だがまた、すべては具体的であり、そこには、現前における感覚的財にあらわれる個的な実在に関する真以外にはなにもないからである。