ブラッドリー『論理学』57

 §3.それぞれの判断の根源に帰り、その初期の発達を考えてみれば、両者の違いは明らかになる。肯定の初歩的な基礎となるのは観念と知覚との合体である。しかし、否定は単に観念と知覚との非合体というのではない。単に実在を指し示すことのない観念や観察されない相違が現存しているというのではなく、最初の否定の基礎にあるのは指し示すことや同一化の失敗である。現前する事実を性質づけようとした観念が排除されることから否定は始まる。否定が始まるのは実在についての試みにおいてであり、性質づけへの困惑混じりの接近においてである。この試みの意識にはそこでなされる提案が含まれているだけでなく、提案の対象である主語となるものが含まれている。かくして、反省の階梯においては否定は単なる肯定よりも高い位置を占めるのである。ある意味より観念的であり、魂の発達においてより後期になって存在するようになる。*

 

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 §4.しかし、この真理の知覚は我々を誤りには導かないに違いない。我々は否定は存在する判断の否定だとは決して言わない。というのも、判断には信念が含まれているからである。我々が否定するものは一度は信じられていなければならない、ということではない。また、信念と不信とは両立しがたいものなので、否定判断は、その存在や消失によって否定そのものを取り除く要素に依存する形でつくられるのかもしれない。我々が否定するのは観念の実際の事実への指し示しではない。かく性質づけられた事実の観念であり、否定はそれを排除する。それが追い払うのは提案された総合であり、真の判断ではない。

 

 

*1:

*この問題についてはシグヴァルトの『論理学』I.119以下と比較せよ。しかしながら、私は全面的に彼の見解を受け入れてはいない。