幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈21

今ぞ恨みの矢をはなつ聲  荷兮

 

 矢をはなつ声は矢声というものである。引き絞って放つとき、わが国では「や」や「えいッ」といい、中国では「著」といって、力を込めあたることを期する、これを矢声という。「や」という名称もこの声からでたのだろうと古人も説いている。恨みあるものを見て矢声をかけて切って放つところをこの句はいっている。乗り物のなかの人の顔が朧ななか、刀や槍ではなく弓をだすのは、間が隔たっている様子も思われて、大変ふさわしい。古註がこの句を解釈して、晋の豫譲の面影があるとするのは間違っている。趙襄子が馬に乗っていたことはでているが、駕籠に乗ったことはなく、また、豫譲が剣を抜いたことはあるが、弓矢を帯びていたことはない。張良の頼みに応じて、博浪が一撃を加えた滄海君のことだというのはますます違う。鉄槌を飛ばして副車にあてた様子は、乗り物に矢を放つことと遠くはないが、簾越しに朧にも始皇の顔は見られなかったことから、強いて『史記』を引いて解釈するには及ばない。また、『古事談』を引いて、清和のころの信濃掾三須守廉というものが、御坂で妻白菊を猿の精に奪われ、寝覚めの里の三依道人のもとで占いをしてもらうと、たまたま妻を伴った者が烏帽子直垂で乗り物よりでたのを見て、大いに怒ってこれを射たが、三本の矢も効力はなかった、という話を引いて解釈する者もある。だが、『古事談』にはこのような話はないようであるし、甚だしく異なった本もあるのだろうか、いぶかしいことである。妻籠という地名も白菊の古事から生じたというが、確かな根拠となるものを見たことはない。また平重盛の伊勢詣でのとき、伊勢三郎義盛が忍んで射かけたことの面影があるという解釈もある。義盛が重盛を射たこと、その出処がわからない。『義経記』は義盛のことをくわしく書いてあるが、そこにもでていない。豫譲、滄海公、三須守廉、伊勢三郎、みなここに引きだしても、特にその面影とすることもなく、またその面影が確かにそうだとひとに納得させるものもない。古解はことごとく廃棄すべきである。一句の姿、情、何となく物語めいて、しかもこれが特定の地、特定の地、特定の書にあるかのように思われるのは、前句を機会として詩歌の幻を現出する手腕を荷兮が発揮したものである。荷兮がこうした演劇めいた趣向をたてて作句するのはその癖である。いちいちその出処を考えようとするのは、幻術師の生みだした幻に対してその本籍や姓名を問おうとするようなものであり、愚かしいこと甚だしい。荷兮に噴飯物と手を打って笑われよう。