ブラッドリー『論理学』59
§7.あらゆる否定にはそれが根づく土壌があり、その土壌は肯定である。主語の性質xが呈示された観念と両立できないことにある。AがBではない、なぜならAはこうしたものであり、もしBであるなら、Aではなくなってしまうからである。Bを受け入れればその性質が変わってしまう。Bが破壊してしまうこの性質によってAは自らを持しているのであり、呈示を退けるのである。別の言葉で言えば、性質xとBとは矛盾する。そして、Aにこの矛盾をもたらす性質があることをあらかじめ認めていなければ、Bを否定することはできない。
しかし、否定判断においては、xは明らかにされていない。AのなにがBとの両立を不可能にするのか我々は言わない。尋ねられても、しばしばその隠れた障害を指摘し、見分けることができないこともある。ある場合には、どれだけ努力してもそれが不可能なこともある。Bが受け入れられれば、Aはその性格を失うが、それ以上のことはわからないのである。否定の土壌は言明されていないだけではなく、知られていない。
§8.「欠如」と「対立」との区別(シグヴァルト128頁以下)も、我々が述べたことの本質を変えはしない。欠如の判断においては、「赤」という述語は、主語となるものには赤がないことによって否定される。主語はまったく色のない暗黒かもしれない。しかし、「赤」が、主語が「緑」であるために否定されたのだとすると、排除し合う対立する性質が現前することになり、判断は現にある対立に基づいていることになる。この区別は、後に別の文脈で見ることになるが、最も本質的なものである(第六章、第三巻II.第三章§20参照)。しかし、いまの我々の問題には関係ない。どちらの場合にも、主語はある性質をもつものとされている。つけ加えられることでも削減されることでも個別の性格は破壊される。もしある物体が色がないために赤ではないなら、色をつけ加えることは我々がいま見ている物体を破壊することになろう。公平に言って、この述語が受け入れられれば、主語はもはやあるがままの主語ではなくなるだろう。もしそうなら、結局どちらの否定も矛盾する性質や性格から始まっていることとなろう。