ブラッドリー『論理学』60
§9.いまあり我々が見ているような主語は主語そのものではないという答えが返ってくるだろうことは確かである。ある場合には、主語は自らの性質を通じて呈示されたものを拒むし、別の場合には<我々の>間違いによって拒むこともある。しかし、私は、この反対が見当違いであると主張しなければならない。どちらの場合でも、主語はある意味決定されている。この決定が(それがどこからくるにしても)主語に肯定的な性格を与えるのであり、それが否定の土壌となるのである。どんな主語も、呈示されたものを単にそれでは<ない>という力でもって追い払うことはできない。それゆえ、「これではない」は「<他の>なにかである」を意味しなければならず、それによって不在を否定の土壌とすることができる。何ものでも<ない>何ものでもないものはなにかである、あるいはなにかである根拠などないことには我々皆が同意することだろう。
こうした区別は我々がよって立つ原理には関係ないが、それらが重大な難点をもたらすことを私は認める。続く章のためにも、ここで我々の考えを明確にしておいたほうがいいだろう。(i)第一に、「対立」がある場合、主語が呈示される述語をはね返すのは、主語には述語が占めるだろう場所に相反する性質があり、それによって述語を排する。ある人間が青い眼をもっているなら、青という性質は茶色の性質とは両立不可能である。(ii)欠如では、二つの場合が可能である。第一に、(a)主語の概念内容のなかに、性質が収まるべき空所がある。目のない人間がいたとき、人間という概念内容には彼に目があったらそこにあるであろう場所が含まれている。この空虚は文字通りの空白とは言えない。瞼に覆われた眼窩や不自然なところのある外観を表象<しなければならない>。そして、概念内容そのものが目があることとは対照的なある性質を獲得し、それは無であるかもしれないが*、それ自体肯定的な性格をもち、視覚という呈示をはね返す助けとなる。
§10.しかし、欠如は別の土壌に立つこともできる。(b)主語の概念内容には述語の現前によって性質づけられるような空所が含まれていないかもしれない。述語を退けるのは、概念内容による決定以外の<なにもの>でもないが、概念内容自体がまったくの空白であるような場合である。この事例を見いだすのは困難である。もし私が「石は感じないし見ない」と言えば、「それはそうだ、それは石<である>し、それ以外の何ものでもないのだから」と的確に反論されよう。しかし、我々は抽象的普遍のなかに欠如の例を見いだすことができる。普遍的観念は(シグヴァルト130頁参照)、それを抽象のうちに留めておくなら、その性格のあらゆる可能な拡がりを受けつけない。かくして、「三角形」ということで単なる抽象を意味するなら、それは二等辺でも不等辺でも直角三角形でもあり得ない。というのも、もしどれかであれば、非限定的であることをやめてしまうからである。我々は馬鹿げた<背理法>を考えだすこともできる。この二等辺の形は確かに三角形であるが、三角形が二等辺でないのは確かである、それゆえ、等々。
我々が普遍をこの不自然な抽象から解放し、それを現実の存在の属性として使うと、こうした欠如判断を導くこともなかろう。というのも、我々が実在を指すとき、その性質を言うことはできないにしても、それが性質づけられていなければならない、ということは知っているからである。一度三角形として性格づけられると、他の性質が否定できるようになる。それがどのようにしてであるかは言うことができないが、三角形であることは決定される。我々がたまたま知ら<ない>でいるのはその三角形が呈示される性質を退けていることである。つまり、そうした呈示を排除する助けとなっているのは我々の無知であって観念ではない。
*1:
*対照は対照された事物の真実を常に保持することができるわけではないが、にもかかわらずそれは実定的な性質に基づいている。かくして、盲目というような言葉の場合でさえ、盲目の男は、視覚を提供する部分に視覚が不在であると性質づけられると思っては間違いとなろう。彼の心には、もう一つの感覚が加わったなら失われるであろう実定的な性格があることを我々は疑うことができない。