トマス・ド・クインシー『スタイル』35

 結果的に言って、我々の原則に従えば、双方ともスタイルの開拓に好都合な状況に自らがあることを見いだしたに違いない。そして確かに彼らは開拓したのである。どちらの場合にも<芸術>として、実践として適切に追求された。学僧による荒削りで禁欲的な哲学の扱い方はそれに応じてその専門用語の厳格な形式における内容の乏しさ、乾燥、冷淡を生んだことは真実である。だが、穏和な感受性にとっては不快なものであるにもかかわらず、この言葉づかいはその種のものとしては完璧なものである。公平に評価すれば、我々はそれを鋭敏な代数の言語、同じようにあらゆる美学的美の標準とは融和しがたい言語とむしろ比較すべきだろう。省略による迅速さ(この迅速さが数学における<優雅さ>で意味されることの多くを構成する)、絶対的正確さ、簡潔性という三つの性質によって、代数の言語は人間の発明において比肩するもののないものとなっている。他方、ギリシャ人の対象はこうした厳格な研究に限られるものではなく、そのスタイルにおける卓越性はより広範囲な、実際包括的な範囲に渡っている。ほとんどすべてのスタイルの様式が<ここでは>例証されている。かくして、我々はギリシャ人や学僧の主観的追求が言葉を自在に使いこなすのに好都合であり、後にはそれをなしたことを示そうと努めてきた。

 

 そして、<第四に>、スタイルが実践として偉大な発達を遂げたところでは理論においてもそれに応じた成功が見込めると期待する権利がある。もし素晴らしい音楽が、音楽的才能のある人々によって短時間のうちに同時に生み出されたら、作曲の科学、対位法、通奏低音がそれに比例する熱意でもってすぐにも開拓されるのは確かである。こうした推察は明らかであるので、この推察が違っているなら、なにか尋常でない原因を探すことになる。さて、ギリシャでのスタイルについて言えば、この推察は間違って<いた>。技芸としてのスタイルは高い文化にまでなったが、科学としてのスタイルはほとんど無視されたのである。これをどう考えるべきだろうか。自然に思い起こされるのは、古代が置かれている状況にある一つの大きな現象であり、それは文学や人間のあらゆる知的尽力に関係していることである。

 

 読者は<出版>という大きな問題について考えてみたことがあるだろうか。我々が考えるのはこの問題である。蒸気による印刷機などの機械的な助けを得ている我々の時代においてさえ、このことは不完全にしか達成されておらず、多分永久に到達することのできない理想、(あらゆる理想と同様)目的を調整するには便利であるが、人間の力の制限内では実際的ではないものにとどまるほかないだろう。というのも、もし本が千部刷られ、それがすべての家庭の炉辺に運ばれたにしろ──いや、各個人の目前に置かれたにしろ──読者は限られているので、全体に渡る出版の目的は破れ、失敗するだろうことは明らかである。出版の一つの条件が別の条件を不可能にする。全体に渡る公表はほとんど希望のない考えである。だが、他方、ある程度の、ある形での公表は、文学の産出にとって<必要不可欠な>条件である。自分の個人的な仲間からのものより大きな関心なしにはどんな作家も努力や準備をする動機づけをなくしてしまうのは明らかで、そうしたものがなければどんな技芸においても卓越性が得られるものではない。