ブラッドリー『論理学』61

 §11.この種の判断において、否定の基礎となっているのは、主語の概念内容でも、概念内容に<加えるに>単純な不在でもない。本当の主語は概念の内容と<それに加えて私の>心の心理学的状態である。表向きは性質づけられていない普遍的抽象は、諸性質に対する私の心的拒絶によって決定される。述語を排除する実定的な領域は実際には私の心的条件にある。私の無知、あるいは私の頑なな抽象は、決して単なる知識の欠如ではない。実定的な心理学的状態である。主語を性質づける概念内容として使用されるこの状態との関連において、抽象や無知は欠如の主語となることができる。この形における普遍は、特殊と呼ばれるものよりもより真であることを後に見ることになろう(第六章§35)。というのも、それは、概念内容の発達によってではなく、それとは異質な心理学的関係によって決定され、性質づけられて<いる>からである。

 

 §12.否定判断の多様な種類は肯定の多様性と密接に関連している。直接的な主語は現前の知覚の内容の一部であり得る(「この石は湿っていない」)。あるいは我々が知覚していない空間や時間の系列の部分であることもある(「マルセイユはフランスの首都ではない」、「昨晩は結氷するほどではなかった」)。否定されるのは一般的な関係でもあり得る(「金属は水より重い必要はない」)。この最後の事例にあるのは、もちろん、実在が排する仮定(第二章§50)にある表現されていない性質である。しかし、いずれの否定判断においても、究極的な主語は我々に現前する実在である。いずれの場合も、実在の性質が、呈示される観念内容を排除しているのが認められる。つまり、あらゆる判断は、肯定的であれ否定的であれ、最終的には存在に関するものである。

 

 前に見たように(第二章§42)、存在判断においては、あらわれたものは実際の主語ではない。「キメラは存在しない」という否定を取り上げてみよう。ここで「キメラ」は外見上は主語であるが、実際には述語である。隠れ住むキメラの性質が、事物の本性に従って否定されている。もしキメラが存在するなら、我々の世界についての見方を変えざるを得ないからそれを否定する。もちろん、ある場合にはそれを変えることもできるが、それに固執する限りはその見方が排除するような述語はすべて拒まざるを得ない。究極的な実在の実定的な性質は隠れたままでいることもあるしあらわになることもあるが、それが、それだけが常に否定判断の基底にはある。