トマス・ド・クインシー『スタイル』36

 さて、我々の時代において珍しくもあり、哲学的にいってもまことに奇妙なのは、作家、読者、出版社といった文学に関心をもつ者たちの盲目さで、個々の作品にかかずらうことで出版に些末な細分化を加えている。本の増加そのものが対象を次第に壊していっている。読者は増え、出版の力も増大している。だが、本は大きな割合で増えているが、現実の結果としては、それぞれの本を別々に取り上げるとその出版の標準比率は次第に下がっている。もし全世界が読者となれば、それぞれの作品の標準出版数は<最小>となろう。しかもそれは本の増加とともに起こる。だが、こうした見方さえこの現象の最も途方もない部分を見逃している。出版の不公平は非常に多くの本がまったく読者をもたないままである結果をもたらしている。本の多くは開かれもしない。五百部やその半分程度が印刷され、ぞんざいに頁をめくられるのは五部かもしれない。同じ号に乱雑に文章が集められた雑誌は、すべての乗客を同じ速度で運ぶ駅馬車のようなもので、一般人はここではすべてが読まれるのだとだまされてしまう。まったくそんなことはない。主題に興味を引かれて一つや二つは読まれる。時に主題の扱い方が魅力的なために読まれるものもある。残りは、確かに少なくとも読者の手にあり目に触れているので本よりは読まれる機会がある。だが、それも同じことである。忙しない一瞥がさほど魅力的でない文章に注がれることもあるが、読むなどというのは問題外である。それに、もう一つの錯覚、真実を隠そうとする者による不条理な信念があり、それは、いまは読まれないでも、本はそのうち甦るだろうというものである。信じられない。その美点が徐々に発見されるような研究の必要な本にのみそれは可能だろう。毎月、実際のところ毎日、<いま>これこそ新しいのだという熱意のもと新たなものが生み出される。未来にはきっとその時にでた本を読む時間さえなくなるだろうに、どうして現存しない本を読む時間が見いだせようか。毎年その年の文学は埋葬されるのである。ワーテルロー以来、外国からのものは除外した我が<国の>文学の棚には五万冊の本とパンフレットが積まれてきた。その五万冊のうち、多分二百冊がまだ残っている。二世紀後に残っているのは多分二十冊程度だろう。多分、五、六千冊は無関心にではあっても読まれたかもしれない。残りは開かれさえしなかったろう。この手早い計算で我々は一つの作品につき一冊の本しか仮定していない。ワーテルロー以来顧みられることのなかった本の総数を数えると四万四千冊に少なくとも五百、あるいはそれ以上の数をかける必要がある。ちょうどこれを書いているいま目の前にある──世間のことをよく知った人間によって考えられないような失敗に光を当てる──新聞を見てみよう。ロンドンの朝刊のフランスの戦争狂に対する正しくはあるが相手の名誉を傷つけるような表現に対して、作者はそれはフランスの人々を怒らせるだろうと書いている。なんたる計算の天才か。問題のロンドンの新聞は毎日四千部出ている。三千三百万のフランス人のうち二十五人も英国の新聞を見はしないだろうし、五人も問題の箇所を読むことはなく、五十以上もある新聞の、更に明日になれば別の五十種によって押しやられてしまう新聞の一語に激怒する者などいない。どうしてこんな錯覚が可能なのだろうか。古代から続く印刷というものに付きものの錯覚からである。印刷されたものには、単なる手稿にはない公的な性格が否応なくつく。だが、印刷された千頁のうちで、本当の意味で手稿よりも公的であるのはごく僅かな部分に過ぎない。そして言葉が毎日の会話に消えていくように千部ある本でも数日のうちにそれぞれの読者のうちに消え去るのである。一年を通じて我々が語ったこと、他人が語ったのを聞いたことで十二月の最後の日まで残っているのはどれだけあろうか。確かに、読書で残るものはきわめて少ないのである。書物は読書を通じて知性を働かせ続けることによってその目的に答え、沈殿、析出は我々が読むものの総量によって決まる。つまり、本はそれを理解する者を見いださねばならず、既に存在する知識に幾ばくかは訴えかけねばならない。公表とはまったく公表されていないものにとっては無駄なものである。理解され認められることで<公的に>知られていないものが<出版される>ことはない。印刷されているものの殆どについては、我々はそれを知っているという以上のことは言えないのである。

 

 こうした、我々の能力の限界の証であり、明らかに治療法がないような愉快でない現象をどういう訳で取り上げたのだろうか。別の機会であれば、圧縮こそがすべての作家にとって最も重要だと説得するためにもそうするのがよかっただろう。それぞれの分から単に一語を短縮すれば、例えば一つの不必要な形容語句を除けば、公衆の自由になる時間は十二分の一ほど増えるだろう。別言すれば、一年にもう一月加わり、読まれる本の巻数は千百から千二百になることになろう。機械的な操作が<この>変化をもたらす。だが、より論理を厳格にし、思考をより厳正なものにすれば、多分三つの文から二つの文を刈り込むことができ、可能な出版量は三倍に増えるだろう。それ故、最も重要な義務、毎年荘重になるゆく義務は言葉数の少ない文化と結びついているように思える。従って、明快な思考の文化、それがよい文章の主要な鍵であり、結果的には流れるような読書をもたらすものである。

 

 だが、こうしたことは、我々の一般的主題と無関係ではないにしろ、直接の目的には広すぎる。この点についての我々の論理の道筋は次のようになる。これまで挙げてきた諸原因によってアテネ市民はスタイルの全科学と理論を完成していたはずだった。だが、そうでは<なかった>。なぜか。彼らの研究にある顕著な片寄りや偏向がある難しさをもち、それが<公表>に結びついている。というのも、ある種の文学についてはギリシャ人は公表の手段を<もち>、他の多くについてはそれをもって<いない>からである。後に示すように、この一つの相違がスタイルの正当な価値評価を混乱させる。