ブラッドリー『論理学』62
§13.論理的否定は、論理的肯定ほど直接に事実に関係することはできない。そうした厳密な性格をもつゆえに、それを「主観的」と言うことができる。それは私の思考の外では効力がない。実在は呈示される変更などは受けつけない。この呈示は事実の運動ではないし、主語が矛盾した性質の実際の攻撃に対して抵抗しているというのでもない。その過程は観念的実験の非実体的な領域で起っている。この実験の各段階は我々の頭以外には存在しないといっていい。その結果は実在について真であるが、この真実は一見そう思われるものとは異なる。
実在は否定判断によって裁定されるが、直接的にとは言えない。排除は実在に帰することはできないし、多様な排除というのは単一の性質に基づいている。魂は象ではないし、風に帆を孕んだ船でもなく、色でもないし、火かき棒でもない。こうした否定において、我々は魂についてある主張をしている。しかし、こうした排除の残りがなんらかの新鮮な知識を与えてくれないならば、主語がこの排除によって決定されるとは言えないだろう。新たな馬鹿馬鹿しい呈示のそれぞれを退けることで魂がその新しい側面をあらわし、それぞれの排除を新たな性質によって行なうなら、「あらゆる否定は決定である」ということができる。しかし、排除をつけ加えたところでなにも加わりはしない、と言ったほうがいいだろう。この類の展開と適用は<無限に>続けられるが、この過程は任意であり、結局のところ非実在である。ある述語を退ける魂の性質が残りのすべてを退け、排除そのものが私の頭にしかない。
私は、事物が排除によって性質づけられ得る、事実の真の性格は否定的関係と呼ばれるものに依存していることを否定しようとしているのではない。私が言おうとしているのは、否定判断はこのことを表現できない、ということである。ある述語が両立不可能であると主張しても、それはその述語や両立不可能性が真の事実であると言っているのではない。もしそうしたことが言いたいなら、否定判断の領域を越えなければならない。
§14.我々は、論理学に「弁証法」の問題を導入するべきではない。結局のところ、それはすべてがそうでない限り正しく、そうである限り正しくない、というだけのことである。あらゆるものはあらゆる否定によって決定されている。というのも、ある通りであるものは全体の成員の数だけあって、その各々と他のすべての成員との関係は否定的だからである。実際には有限であるが、観念的には全体である全体のそれぞれの要素は自己肯定によって自らを越え、自己主張によって、自らを性格づけ否定する他者を生みだす。このようにあらゆるものが自身のうちに矛盾を抱えているなら、ある意味あらゆるものがその矛盾でなければならないだろう。否定は実在の一側面ばかりでなく、我々の望むどこにでもあることとなる。この観点によれば、全体が実定的であることさえ疑わしくなろう。それはその位置において自らの否定で離散する限りにおいて、その離散において正反対のものを得る限りにおいて正しいもので<ある>からである。「あらゆるものはその位置を除けば何ものでもない」を「位置を占めるすべてのものはその正反対のものであり、位置を占めないものはすべてである」に変えられるかどうかは疑わしい。
もしそうなら、実定的な性質などないことになろう。論理的否定は、もう一つの意味では、魂となり、それが実在の世界の身体なのだと我々は思いたがる。我々の結論はその主要な部分にかかわるだろうが、いまこの見解を論じることは求められていない(第五章参照)。
弁証法的方法によって完全に認められている論理的否定は、実在の関係を表現する必要はない。そうであるなら、それを主語として考え、その事実を言いあらわす肯定判断によって含意として排除を表現しているのだと考えたほうがいいように思える。否定が我々に語るのは、<我々が>矛盾したものを取り上げたとき、それを排除するということだけである。それを退けるのが完全に独立したものであるのか、排除したものを生みだしたり誘いこんだりしたのかどうかは全く関係がない。最初の拒絶が単なる媚びであるのか、最終的にはきっぱりとした別れに向かうのかも関係のない問題である。否定というのは我々の心の向こう側について主張するわけではないので、これらはすべて否定が表現することを越えている。
弁証法的方法は、なんら修正を加えないなら、維持しがたいだろう。しかしながら、それは思考と現実との関係を扱おうとする重要な試みである。論理が事物に対応するものであることを確信する優れた作家たちが、論理学が扱う差異と同一性が現実の現象との間に存在する関係なのかどうか自問しないわけがないだろう。