ブラッドリー『論理学』63

 §15.要約すると、論理的否定は常に矛盾するが、矛盾の存在を肯定しているわけでは決してない。「AはBではない」は、「AはBである」の否定、あるいは、「AはBである」は間違いであることを肯定しているかどちらかである。この帰結以上に進むことはできないので、単なるBの否定が矛盾する非Bの肯定をすることは決してできない。それが主張する事実は、直接的、究極的な主語でのことにしろ、両立不可能な正反対の性質の存在ではない。*そういうわけで、呈示されたA-Bが矛盾していても、それ以外のなにかが真であるときにのみ、A-Bは偽として退けられる。否定の基礎にあるこの実定的な基盤は<矛盾>によるものではない。食い違い、反対、両立不可能である。つまり<相反>である。論理的否定においては否定と事実とは決して同じであることはできない。

 

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 §16.矛盾する観念は、もしそれを否定的な形であらわすなら、論理から葬り去らねばならない。もし非Aが単にAの否定なら、それは性質を欠いた主張であり、実定的な支えなしに行なわれる否定であろう。他の何ものでもないなにかとの関係はつかみ所のない空虚に終わるものであり、思考はなにもない空間に投げ出される。それは実在ではあり得ない非在である。こうしたことが弁証法的方法の意味ならば(誹謗者がそう仮定するに足る十分な理由はあると告白しなければならないが)、厳密に言って、意味はナンセンスとなろう。なにであれ、<単に>非Aであることは不可能である。思考において非Aを実現することは不可能である。なんでもないものは完全に否定的とは言えないから、それはなんでもないもの以下である。なんでもないものは少なくとも空虚な思考であり、少なくとも私の思考が空っぽであることを意味している。なんでもないものは失敗以外のなにを意味しているのでもない。失敗はなにかが失敗しなければあり得ることではない。しかし、非Aは非人格的な失敗そのものである(§11)。

 

 非Aは単なる否定以上のものであるに違いない。それは肯定的なものでもなければならない。それは、Aを述語づけ、Aと述語とを結びつけたときに、存在からAを除き去るような性質につけられた一般的な名前である。矛盾する観念は食い違い、相反する普遍的観念である。その形では、論理学にある場所を占める。仮定による食い違いにつけられた一般的な名である。しかし、それを食い違いの集合だとは一瞬たりとも考えないようにしなければならない。

*1:*両立不可能性の性質についてより詳しいことは第五章に。