トマス・ド・クインシー『スタイル』38

 それはなにか。<劇場>と<アゴラ>あるいは<公共広場>である。舞台での公表と演壇での公表である。それらはアテネに起こった並はずれた公表様式だった。一方は、まさしくペリクレスの世代にミネルヴァのように突然に生まれた。他方は、ペリクレスより百年先行するペイシストラトスの世代からゆっくりと成熟していった。この二つの公表形式、舞台と弁論が本質的に、より高尚な公表の目的があるにもかかわらず、アテネの出版と言えるものだった。そして、活字による出版としてはこれがいかに不完全なものであるとしても、ある重要な点についてアテネの公表形式がそれぞれに美点をもつことは明らかである。第一に、声、身振り、場景、音楽すべてが力強く伴った、より効果的、より正確な公表形式であり、間違った読み方、不注意な読み方を被ることがない。第二に、それはより広範囲に渡る公表である。それぞれの劇は二万五千人、あるいは三万人によって読まれ(よりよいことに聞かれる)、現在の標準的な出版では少なくとも四十版に匹敵する。弁論はそれぞれ多分七千人に伝えられた。だが、こうして劇場や演壇での公表と出版による公表とを対照しているわけだが、当然我々が問わざるを得ないのは、なぜギリシャには出版がなかったかということである。即座に答えられることであろう、つまり、出版術が発見されていなかったためだと。だが、これは誤りであり、それは現在のダブリンの大司教の調査によってわかる。出版術は発明されて<いた>。それは繰り返し発明された。コインやメダルに諸伝説を鋳造する技術(この仕事は古代人の方が我々現代人よりも格段に優れていた、というのも、我々はそれを機械的に製造するが、彼らには美術であったから)がつまり出版術を先取りするものだった。この技術、印刷の秘密は単なる材質の善し悪しに従って幾度も目覚めたり眠りに落ちたりした。活版技術の欠点に依るのではなく、その技術を保つ<紙>に欠点があり、ワトリー博士が正確に観察しているように、<それが>ペリクレスギリシャ、あるいは後のキケロのローマに印刷された本が存在しないことの理由である。では、なぜ紙がなかったのだろうか。両国に共通に当てはまる理由は亜麻糸がないことで、その不足は羊毛の服を着るという一般的慣習から来ている。この点においてはアテネとローマは同じ水準にある。だが、アテネについて言えば、唯一代用品を得ることができたエジプトとの通商が僅かになることによって不足は極端なものになった。

 

 ローマでも紙の不足は行き渡っていた。詩人のホラティウスはエクオトゥシカムの街を二つの理由で楽しんだ。作詩法上の量から六歩格の詩ができないこと(versu quod dicere non est)と水が売られていることである(voenit vilissima rerum aqua)。それはブリストルの温泉の上にある有名なクリフトンと同じで、そこでは水が一シリングで買われている。だが、ホラティウスのエクオトゥシカムもブリストルのクリフトンもメッカのキャラバンのように水に「飢えている」わけではない。そして、紙の不足という点ではペリクレスアレキサンダーアテネアウグストゥス皇帝のローマとでは大きな違いがある。アテネにはその名が現代まで伝わってきているような悪い詩人がいた。だが、アテネではその下手な作品を雑貨屋に回して罰することもなかったし、

"in vicum vendentem pus et odores,

Et piper,et quicquid chartis amicitur ineptis"─

印度の富をむさぼるロンドンのように銀でその道を舗装するようなこともなかった。売り物にならない著者を小物として小売店で扱うという下劣なやり方はホラティウスの注意を引くようになるまではローマに存在し、一般にそれについての辛辣な当てこすりが起こり、それが効力をもち厳しく響くまでは普通に行われていた。

 

 ホラティウスが明らかにしていることによって、いかに紙が豊かにあったかの証拠を得る。人が羊毛の服を着ている限り、<安価な>紙を見つけることはできないというのは本当である。雑誌がローマでは一部十ギニーで印刷されていた。紙は、疑いなく高価なものではあったが、得ることはできた。他方、洗練された人物が民衆に自分の気持を伝えるのに貝殻以上の手段がないのを認めるとき、アテネでは考えを記録する材料が致命的に少ないことが理解される。それ故市民による罰則を貝殻追放というのであり、投票は貝殻に記された。また、別の大都市、即ちシラクースでは<ペタリズム>が行われており、灌木の花弁で投票が行われた。ずっと我々の時代に近いコンスタンチノープルでは牛の皮が同じ目的に使用された。