幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈27

烏賊は夷の國の占形  重五

 

 秦王が東方へ旅行したとき、数を数える竹を入れる袋を海に落とし、それが化して魚となる、ゆえに烏賊はその形がその袋のようだということを『西陽雑俎』から引きだして、古解は事々しく解釈したが、ここでは関係がない。曲齋は、白いのは人の骨かと取り上げるのは衆生を哀れむ僧であり、この僧一行禅師のように易に優れていたので、日本であれば鹿の骨で占い、中国であれば亀の甲を焼き、烏賊の甲なら夷狄の占いにいいだろう、と無駄なことに手を汚してしまったとうち捨てたさまだといい、何丸は、流罪の人が、知らぬ浜辺に出てぶらぶらしていると、何か小さな白いものがあり、人の骨か何かと心細く思って取り上げてみれば、骨ではなく烏賊の甲だった、それを幸いに我が身の落ち着き先を占ってみよう、秦王の袋が化してなった烏賊なのだから、夷の占いにはあつらえ向きだと占いをするさまだといっている。僧や流人などとそうまで深く解釈するのはやりすぎである。僧を一行のように易に優れたものとし、流人を段成式のように博学だとするのも強引だと言える。大阪の升六は、骨が累々と積み重なった古戦場で行き悩む人が行き先を占おうと、どこか疑わしいものを取り上げてみると烏賊の甲で、夷の占いとなればいまの用には立たない、さて何をもって占おうかと思いあぐねた様子、と解釈するのはいよいよおかしく、象をかたどって漆桶をつくるようなものである。この句はただ前句のしらしらと砕けたものを、夷の占いに用いた烏賊の甲だというまでのことである。夷の占いにはいいだろうとあざけったわけでも、夷の占いをしようと欲したのでもなく、そのまま穏当に解釈すべきである。さて烏賊の甲を胡国の占いに用いたかいまだ詳しくは知らない。占いのたぐいはそのやり方は甚だ多いので、専門の本を詳しく調べれば、烏賊の甲を占いに用いることもあるかもしれないが、そうしたことがあってもなくてもそれを追究する必要はない。延宝の『次韵』、天和の『虚栗』以来、芭蕉は刻苦して旧来の俳諧に落ち着くことを避けたとはいえ、貞享のころの『冬の日』は、後の『猿蓑』『炭俵』のようになるまではいたらず、宗因、松意の風、守武、宗鑑の香の残った所もままあった。第二巻の「雨こゆる浅香の田螺ほり植ゑて」、第五巻の「泥の上に尾を曳く鯉を拾得て」という句などは、いずれも『冬の日』より前の、「第一第二の弦はぢよき/\として牛蒡をきざむ」、「さゝげたり二月中旬初茄子」、「此梅に牛も初音と啼きつべし」といったたぐいのものである。梅に鶯のところを牛と戯れ、二月中旬に瓜をすすむとあるのを初茄子に転じ、「第一第二の弦は索々として秋風松を払って疎韵落つ」とある索々を牛蒡を刻む音のじょきじょきとしたのは、みな古い俳諧の体からでた。泥に尾を曳くは『荘子』に出典があり、亀のことなのを、鯉と続け、浅香の沼には花がつみと『古今集』以来誰でも思っているのを、田螺と続けて驚かす。これらの滑稽、俳言、俳意、いずれも人を笑わせ、新たな感情を生じさせる。俳は歪に通じ、正論ではない言説がすなわち俳諧である。亀の甲羅、鹿の骨はそれぞれ中国と日本の占いに用いるが、烏賊の甲を焼くのが夷の占いだとする、これもまた古俳諧の系統をひいた滑稽であり、前句が物々しく「人の骨か何」といったのを、烏賊の甲だと応酬し、しかも焼け残りの細片だとしたことにこの句のおかしみがある。易に長じているわけでも、博学なわけでもなく、これただ俳諧であるのみであり、古風の俳諧である。