ブラッドリー『論理学』64

 §17.否定や矛盾は、矛盾の肯定と同じではない。しかし、最終的にはそこに落ちついてしまう。矛盾するものは、いかに否定が主張しても、決して明らかにはならない。「AはBではない」で、食い違いは特定されないままである。矛盾の基礎となっているのは、Bとは相反するA-CやA-DまたはCとDである。しかし、そのようなものは存在しないかもしれないのである。我々はA-BをAを軸にした関係によって退けるのではなく、Aそのものが実在から排除されているがゆえに退ける。究極的な実在は、A-Bとは食い違う性質をもつ主語であろう。矛盾は決定されていない相反の上に成り立っている。それは主語のどの性質が述語を排するのかを語りはしない。主語そのものが排除されているのではないかという疑いに我々を置き去りにする。呈示をはねつけるなにかが存在する。それが我々の知るすべてである。ソクラテスは健康であるから病気ではないかもしれない、あるいは、ソクラテスなど存在しないから病気でもないのかもしれない。

 

 §18.受容と排除の中間はないから、矛盾は常に二重である。一つの非Bしか存在しない。しかし相反するものは無限にある。Aと食い違い、両立不可能な性質の数は、一般的な規則によって決定することができない。もちろん、用語の使用を制限することで相反するものを限定することは可能である。しかし、論理的な目的にとっては、こうした慣習上の制限は厄介なだけである。論理では、矛盾は単に食い違いであるべきである。時代遅れの伝統を守ろうとしてもなにも得るところはない。技術的な区別が必要とされないなら、なしで済ませるほうがいいのである。