ブラッドリー『論理学』66

第四章 選言的判断

 

 §1.選言的判断は、ほとんどの論理学者によって、扱いにくい問題だともっともな不平をもたれている。しばしば仮言的判断の適用だととられ、その付属物の扱いを受けている。数多くの尊敬に値する考察が「もし」と「~かあるいは」の意味をほんの僅かでも知ろうとしないのは不思議なことである。

 

 選言についての最も一般的な見方は、それを仮言の組み合わせと捉えることである。この見解は幾分表面的で、それを不正確に述べることもあり得る。「AはBであるか、あるいはCはDである」は、もしAがBでないなら、そのときCはDであり、もしCがDでないなら、そのときAはBである、ということを意味していると言われる。しかし、少し考えてみれば、二つの事例が除外されることがわかる。AがB<である>場合、CがD<である>場合、我々にはなにも言うことができないのだろうか。「~かあるいは」は、AがBであるならC-Dは偽でなければならず、CがDであるならA-Bが偽であることは確かに保証してくれる。Bと非B、Cと非Cという四つの可能性を考えなくては、選言判断を余すところなく述べたことにはならない。

 

 §2.しかし、どれだけ完全にありうる場合を想定しても、選言判断は実際には仮言判断に還元することはできない。その意味が仮言的に与えられ得ることは間違いない。しかし、そのことからそれが仮言的で<ある>と論じるべきではない。『ヴェローナの紳士たち』のなんでも例証してしまう男がこのことに関係している。

 

 スピード 本当のことを言ってくれ、似合ってるかい。

 ラウンス 俺の犬に聞け。ああ、と言ったら似合ってるし、いや、と言ったら似合ってる、尻尾を振ってなにも言わなければ、似合ってるさ。

 スピード 結局似合ってるってことだな。

 ラウンス そんな秘密は例え話からででもなきゃ手に入らないぞ。

 

 

 実際にはこれは間接的な過程を辿っており、秘密を定言的判断にすることで、過程が選言を表現できている。

 

 私は「~かあるいは」が純粋に定言的だと言おうとしているのではない。私が言いたいのはある程度それは定言的<であり>、いかなる仮定もなしに事実を主張している、ということである。「Aはb<であるか、あるいは>c<である>」において、そのある部分はまったく非条件的である。いかなる「もし」もなしに事実を主張している。「でも、それが仮定の組み合わせに還元<される>ことは否定できないだろう」という反対意見には、答えにそれほど長い時間をかける必要はない。仮定の<組み合わせ>は仮定そのものにはないものである。それは仮定を組合わせる心のなかにあり、一緒になって問題になっている領野を述べつくそうとする。ある発言を、それ自体のみで結びつきをもたず、陳述のようなものをまったく表現できないある種の性格をもった要素に「還元」できると言うのはナンセンスである。選言の基礎、仮言の土壌であり基盤にあるのは定言である。