ブラッドリー『論理学』67
§3.選言判断の定言的性質にはある種の難点があることは確かである。「Aはbまたはcである」、こうした言い方は実在の事実についての答えではあり得ない。実在の事実には「~であるかあるいは」などはあり得ない。両者であるか一方であるか、その二つの間になんら現実的なものはない。実際には、我々はAはbあるいはc<である>であるとはほとんど言うことができない。他方、単に無知を表現することからも遠く離れている。もし「私はAがbであるかどうか知らないし、Aがcであるかどうか知らない」というなら、それは元々の陳述と等しくはないだろう。我々が主張していることは次のように示すことができる。我々が「~かあるいは~」で性質づけた主語が存在しないと証明されたら、我々の陳述は偽であろう。主語が存在をもつだけでなく、更にある性質をもつことは明らかである。
前の議論で述べたあらわれている主語と究極的な主語との相違をここで忘れてはならない。「Aはbあるいはcである」はAが事実であることを常に意味する必要はない。たとえば、わたしは「Aは存在するか、存在しない」と言うこともできる。ここでの主語は事物の本性であり、それがAという概念内容を退けるかそれによって性質づけられる。しかし、主張は定言にとどまっている。この章ではAを実在の主語をあらわすものとするので、読者はあらわれとしての主語は述語に属し、Aに関して主張されていることは究極的な主語についてのみ真であることを銘記しておかねばならない。
同じことは「AはBであるか、あるいはCはDである」のような例にも適用される。この場合の主語はAやBではなく、CやDでもない。主語は述語であるA-Bあるいは述語であるC-Dによって性質づけられる実在である。
§4.「Aはbあるいはcである」で主張されているのはAはbあるいはc<である>ということではない。それではなにが主張されているのだろうか。まず最初に我々はAが存在することを言っている。次に、それになんらかの性質を与えていることは確かである。どんな性質を与えているのだろうか。bあるいはcということではあり得ないなら、その中間にあるなにかだということが可能だろうか。いいや、それはあり得ない。例えば、灰色は白でも黒でもなく、そのどちらの色をも排除している。bでもcでもないAの性質とは、どちらかを排除した性質でないことは確かである。まだどちらでもないが、いずれはどちらかに決定される、両者に共通の性質でなければならない。