ブラッドリー『論理学』68

 §5.この共通の基盤をxと呼ぶなら、「Aはxである」は定言的に真である。我々はある場合にはxを区別し、それに名前をつけるが、別の場合には名前のないまま暗黙の意味にしておく。「男性、女性、子供」は「人間」を共通の基盤としている。「白あるいは黒」では「色づけられている、他の色合いを排除するよう色づけられている」というのが主張される属性である。「英国あるいはアメリカ」、「生者あるいは死者」で我々に与えられるのは「その他の場所ではないどこか」であり「有機的な存在」である。そして、もし我々がある人間を「よい、あるいは悪い」と言うなら、少なくとも彼が道徳観をもっているということを我々は言っている。この規則に例外的な真理はない。存在と非存在でさえ、我々がそれをどのような意味で使うにしても、我々の精神とある種の関わり方をする共通のものをもっている。既に見たように(第三章)、純粋な否定は存在しない。であるから、あらゆる選言とその土壌には、選言が肯定される領域、共通の性質の肯定が存在しなければならない。

 

 §6.しかし、xはたまたまbとcに共通な普遍性ならなんでもいいというわけではない。それはより特殊化されている。それぞれの性質の対立物は除外され、「bあるいはc」の否定でもあり得ない。bcによって覆われた領域の外側のものが肯定されることはない。しかし、Aの述語としてbとcは両立不可能なので、その<両者>ではあり得ない。結論として残るのは、それが<一つのもの>でなければならないということである。「bcによって囲まれた領域の唯一つの要素」がbとに共通の述語である。そして、選言において我々は、この述語で、定言的にAを肯定するのである。

 

 これらは事実に関わることで仮定に関わるものではない。しかし、それ自体において「bあるいはc」が肯定されているのではなかろう。選言判断は完全に定言的なのではない。我々の立場を確かなものにするために、性質x、この普遍のもとに我々は仮定を打ち立てた。bとcが相容れないことはわかっている。Aがbとcのなかで個別化され、それゆえ、bとcの一つであることもわかっている。両方ではあり得ないし、どちらかでなければならない。それが事実にも当てはまる。選言を完成させるためには、我々は「それが一方でないなら他方でなければならない」という仮定をつけ加えなければならない。もしAがbでないなら、それはcでなければならない。cでないなら、bでなければならない。この仮定で「あるいはまた」が完成する。選言判断とは定言的な基礎の上に仮定を結びつけることにある。