幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈33

箕にこのしろの魚をいたゞき  杜國

 

 鰶を昔から「このしろ」と読み、また鯯も古くから「鯯」と読んできた。本によっては鮗とあるものもあるが、鮗もまたこのしろであり誤りではない。『新撰字鏡』に見えるもので、難ずる者は却って間違っている。字彙字典に見えないからといって俗において通じていることを斥けるのは、心が狭い。このしろは子の代に通じる。それによって室の八島の伝説がある。室の八島に翁が住んでいた。ひとりの女があったが、大変美しかったので、国主がこれを召した。翁も女もその命令に従うことを欲しなかったが、罪になることを恐れて、翁は偽ってその女は病んで死んだといい、棺に多くのこのしろを収めて荼毘に付した。このしろを焚く匂いは死体を焼く匂いに似ている。翁と女はともに逃げる、とある。また、上古の世に、室の八島に鬼がおり、人の子を奪って食らうことが多かったので、ついにはこのしろを焼いて門に置いた、鬼がきてこのしろを取って人を取らなかったので、それから鮗を子の代という。「下野の室の八島に立つ烟誰が子の代とつなし焼くらむ」という古い歌がある。この二伝説の前者は『竹取物語』の匂いがあって、しかもその高貴さと田舎っぽさのさ、富士の高嶺の烟と室の八島の烟とのようで、かぐや姫の物語があってのちにこの物語が出たのではないかと疑われる。後のは鬼子母神に石榴を供する話に似ている。いずれにしろこれらの伝説は「つなし」を「このしろ」ということからできたもので、これらのことがあってからつなしをこのしろというようになったのではない。「誰が子の代」の歌はその調べがさして古いとも思えず、却ってこのしろという語は既に古くからあって、『日本書紀』に塩谷鯯魚という人があり、鯯魚は「このしろ」と読める。つなしは大伴家茂の鷹の歌に見える。「誰が子の代」の歌の調べは、塩谷鯯魚、大伴家茂のころより後のものであることは明らかである。だとすれば、こうした伝説は事々しく考え論じることはないが、ともかくこのような故事があってそれより転じたことか、田舎などで子の生れては死に、また生れては死ぬことがあるとき、胞衣とこの魚とをともに地に埋めればその子が成長するという俗な呪法がある。これによってこの句を解して、牛がたびたび死ぬので、死なないように魚を埋めて祈るさまだというものもある。うがち過ぎの解釈も甚だしく、支離滅裂で論理をなさない。死んだ後を弔って魚を埋めるということはさらに不可解で、人の子と牛となんの関わりがあろうか。古解には頼りないものが多いが、これは甚だしく通用しがたい解釈である。あるいは、牛は生け贄にするものであり、このしろも生け贄に供えると見えるので、だとすれば鬼のためには人を生け贄にした方がいいだろうと解するものもある。この解もまた意味が明らかではなく、何のことを言っているのかよくわからない。また、室の八島の面影だというものもある。室の八島の面影とは、一句だけを見ればそうとってもいいだろうが、どのように前句と続くのか、この解もまた理解しにくい。あるいはまた、室の八島のこととは関係がない、この句はただ籠にこのしろをのせて夕暮れまで売り歩く市人があり、夕風が寒いのに牛を弔うものもあれば、こうした市人もある浮世の様を付けたのだという説もある。この解は淡泊で却って通じているようにも思える。けれども前句の牛の跡吊ふは前々句の琵琶打に対して傍ら付であり、この句で再び草の夕ぐれに立つ人に対して市人を傍ら付けにしたとすれば、付け方に変化がなく、あまりに幼くて、興もなく、習わしにも違えていると前人が評したのももっともなことである。あるいはまた、前句を流行病で多くの牛が死んだのを草むらに塚を築いて供養する体と見立て、村人がその経費を持ち寄る様を付けたもので、その浦の漁師たちは各々一籠ずつの魚を持ち寄って、僧へのお布施としたものだというものもある。この解はいいようにも思えるが、多人数の漁師が一籠ずつもって牛塚のあたりに集る様子を想像すると、異様で、笑うべき怪しむべきことである。漁師が布施で魚を用いるのは聞いたことがあるが、牛にこのしろを供えるものでもなく、牛塚のそばで籠の魚をもらっても僧も困ってしまうだろう。前句に夕暮れとあるので、寺中とは思えず、また死んだ多くの牛を田舎の小さな寺に葬るとも思えないので、どちらにせよ野外であるはずだが、そこに魚を持ち寄るのはどうしても受けいれがたい。この解は正しいようにも思えるが、やはり通じがたい。

 

 室の八島のことはここに引用する必要はない。一籠ずつのこのしろを持ち寄って僧へのお布施とするというのも穿ちすぎている。ここはただ句のままに、簀にこのしろの魚をいただいていると解釈すべきである。市人ではなく、漁師でもなく、ただ前句に死んだ牛の主である。牛仏の牛ではなく、ごく普通の飼い牛を埋めた草むらを通りかかって、唱題か称名をした人である。前句のとむらうという語を重く取って、仏事供養など、牛仏の昔話をいまに移したように扱うことから、解釈が重たいものとなって、箕にこのしろの魚をいただきという軽く、脱然としたこの句のおもむきを忘れてしまうこともわかるが、称名一片もとむらいであり、合掌一年もとむらいであり、心を向けて情をもって思うことはみなとむらいであって、前句の本来は重くこの句の素性は軽いものであることを考えて、前句の弔いとあるのをこの句では軽くとっているのを悟るべきである。牛は馬よりも険しい山道に堪えることもあって、山中にも用いられるが、山が海に交わり、海水が山に迫るような海辺の地でも用いられることが多く、房州紀洲の島などに少なくない。このことを知れば、この句は解するまでもない。魚を戴くとあると漁夫とし、とむらうとあればすぐに僧が読経するように読んでしまうために、漁夫が牛を飼い、僧がもらったこのしろに困ってしまうといったような解を産むにいたる。また箕は元来農家の用具で漁師の道具ではない。牛もまた運搬や耕すために用いる家畜で、草を刈ったり釣りの役に立つことはなく、ただこのしろの一語があるためにこの句を漁夫のことにするのは、早計即断と言うべきである。句のままに解すれば、箕をもっているのは、むしろ漁師ではない風情が見え、ほと遠くない浜辺からこのしろを買って道行くものが、日が暮れ始め闇が目に付き始めたとき、自分の牛が死んだのを埋めた地のそばを通って、南無阿弥陀仏と弔ったものである。このしろは魚のなかでも尊いものではなく、牛馬の捨て場は村はずれにあるものなので、よくこの句を味わえば、人、場所、時、情、絵のようにあらわれでて、村のおもむきや野景のいいようのないさびしさ、眼前にある心地がする。詩を解するのは、理を追って得るべきではない、感じて会得するべきである。この句が前句の人のありさまをあらわしたものであることは疑いがない。俳味が十二分にある面白い句である。連句のことをいうものは試みに考えてみたまえ。この箕をいただけるのは男か女か、と。