ブラッドリー『論理学』71

 §11.イェボン教授への敬意にもかかわらず、私は選言が排他的でないような例を認めることができない。告白するが、「そして」と「あるいは」の区別が崩壊してしまうようでは、私は人間の言語に絶望することになろう。より以上の証拠を調べてみても、それはいま論じたような表現の不確かさか、最も単純な混同といわねばならない。「花環あるいは花の冠」または「汚れたところのない金あるいは報酬」(イェボン70頁)のような表現では「あるいは」が排他的でないことを示していると言われる。しかし、それはまったくの間違いである。この選択は厳密に両立不可能なものである。しかしながら、区別は事物に適用されるのではなく、名前に適用される。もし語がまったく同じ意味なら、「花環あるいは花の冠」は「どちらでも好きな名前で呼ぶことができる」ことを意味する。事物に二つの名があり、どちらをとるかは自由である。イェボン教授が<両方の名前を同時に>使うことを要求しているのだとは到底考えることができない。であるから、「報酬」が「金」と違ったものを意味しないなら、金であろうと報酬であろうと、そこには汚れがないと主張されているわけである。両者を同時に言おうという考えはまったく眼中に入っていない。

 

 架空の対話を使って問題をより明確にするよう努めてみよう。A.最も偉大なローマの詩人は誰ですか。B.その名はヴァージルです。A.なんですって、ヴェルギリウスではないのですか。B.そうです、ヴァージル、あるいはヴェルギリウスです。A.わかりました。彼は二つの名をもっているのですね。それでは「ヴェルギリウス-ヴァージル」と呼ぶことにしましょう、そうすれば間違いはありませんから。B.すいません、そうなるとあなたは間違っていることになります。どちらか好きな名で呼ぶことはできますが、両方いっぺんにというのは駄目なんです。

 

 これ以上例を増やしても意味がない。どんな例を出しても、日常会話のいい加減さがあるか、「あるいは」には、異なった名を同時に使用することはできないという両立不可能性か、事実そのものにある両立不可能性が認められるだけである。

 

 §12.もちろん、単なる陳述ではそのどちらの両立不可能性があるのかを示してはくれない。そして、選択が非常に不正確な仕方で呈示されることがあるのは誰も否定できない。これらの問題から言語の一般的な使用法について言及するのは素晴らしいことだが、それらの用法には、「無意識の論理」と呼ばれるもの以外に単なるいい加減さや不注意が潜んでいるのを思い起こさねばならない。これまで論じてきた間違いを仮言判断の曖昧さと並べるのは不適当である。もちろん、基礎となるものから結論を論じるのであって、結論から基礎を示すことはできないのは確立された教義である。形而上学的な観点からすれば、確かにこの教義は疑わしいが、論理学では十分に妥当である。だが、いいかげんな表現を使うと、基礎は<単なる>基礎であり、結論から推論されうるものとなる。シグヴァルトはそうした事例に注意を向けている(『論理学』I.243、『Beitrage』59)。「もし懸命に走れば、君は彼を捕まえられるだろう」はしばしば「懸命に走ら<なければ>、きみは彼を捕まえられないだろう」を間接的に表現していると言われる。しかし、こうしたいいかげんな文章では、この事実が特別に言明されなければ、条件が<絶対に必要なもの>として与えられないという教義を論難する正統な根拠とはならない。我々の表現が厳密に解釈されていないと文脈が示すとき、我々は「これあるいはあれ」を両立可能なものととる自由があるし、「もし」が「もし~でないことがなければ」と同じととってもいい。しかし、事物がそうであるとみなされるものと実際にそうで<ある>ものとはまったく異なることは憶えておくべきである。