ブラッドリー『論理学』72

 §13.こうした間違いについてはこれで終り、問題そのものの議論に戻るべきときである。選言判断の詳細な過程については推論について述べるときまで十分に扱うことはできない。しかし、ここで、基礎となることを部分的にではあるが準備しておこう。

 

 第一に、続く章で見ることになるが、選言は排中律に基づくものではない。後者は選言の単なる一例である。

 

 「Aはbあるいはcである」は、既に見たように、Aが存在し、ある性質をもつことを主張している。更に、その性質はbcの内部にある。両者に共通するものが主張され、bcの内部で決定可能であるものが言明されている。別の言葉でいえば、bとc双方に矛盾するすべてのものが排除されている。

 

 このことについては既に見たが、ここで私が指摘したいのは次のことである。bcと矛盾せず、Aと両立可能なものが存在するとどうして我々は知るのか、またそれが可能なのだろうか。すべてがこのことに依拠しているわけだが、依拠しているこのこととはなんであろうか。

 

 いまのところ、我々の無能に依拠しているのだと答えねばならない。我々が拠って立つことのできる偉大な原理など存在しない。我々はAと対立することなしにbと対立するもの、cと対立するものを見いだすことはできない。そして、我々は大胆にも、我々はなにも見いださないゆえに、なにも存在しないのだと仮定するのである。無能からの結論はそれ自体無能力であるが、後に見るように、それがなにかを信じる際の基盤、唯一の基盤として受けとることができないのかどうかについてはいくつかの疑いが残る。(第三巻II.第三章)

 

 §14.問題の全体をもう一度次のように言いあらわそう。「Aはbあるいはcである」は(i)Aがbならcではなく、Aがcならbではない、(ii)Aがbでないならcであり、Aがcでないなら、bである、というように表現することができる。最初の二つの仮言陳述は、bとcというAの述語は両立不可能である、あるいは、Abcは存在不可能である、という知識に基づいている。

 

 第二の組は、我々はbあるいはcを排除したAの述語を見いだすことがないので、それは存在しない、という仮定に基づいている。bあるいはcと対立するものは、Aとも対立することを我々は見いだす。それゆえ、次のような結論が残る。Aの制限内では、c以外に非bはなく、b以外に非cはない。そして、Aはそれ以上のなんらかの性質をもっているに違いない。これが第二の仮言の根拠である。

 

 こうして、我々は仮定の組み合わせと言うことなしに、選言判断の本質を見る。それは独自の性格をもっている。最初は、ある制限内で知られている述語をとり、排除によって限定され、更に仮言的排除によって限定される。我々が全体を有しており、その部分を取り除くことによって残りが決定できるという仮定に依拠している。端的に言って、ある種の全能を仮定している。その主張は定言的だとは言えないにしても、まったく仮言的でないことは確かである。それらの要素の双方を含んでいる。加えて、将来考察を行なうことになる推論の過程を含んでいるのである。