ブラッドリー『論理学』73

第五章 同一性、矛盾、排中律、二重否定の原理

 

 §1.否定的、選言的判断を論じたあとで、我々は同一性、矛盾、排中律のいわゆる「原理」と呼ばれているものを一緒に扱うことにする。加えて、二重否定についてもいくつか考察してみよう。

 

 同一性の原理はしばしば同語反復「AはAである」という形であらわされる。もしそれが判断のどちらの側にも相違が存在しないことを意味しているだけなら、我々はそれをすぐに片づけることができる。それはまったく判断ではない。ヘーゲルが言うように、それは判断の形式に対して罪を犯している。なにかを言っているように装っているにしても、実際にはなにも言っていないのである。それは同一性を主張してさえいない。というのも、差異のない同一性は何ものでもないからである。二つのものを同一であるとするのは、少なくとも同じもののなかになんらかの出来事の変化があるか、あるいはある相違を経てその事物が戻ってきたことを意味する。そうでなければ、「それはそれ自身と同一である」と言うことはまったく意味がない。「AはAである」は少なくとも、異なったAの異なった場所がないなら、判断の外見さえもつことができない。主張している内容になんらかの差異が入らないなら、我々は判断の現実性をもつことができないのである。

 

 §2.我々はどんなときでも決して同語反復を使いたいとは思わない。普通の生活において、なんの相違もないことを主張しようとするほど馬鹿な人間はいない。我々は「私は私だ」とか、「人間は人間であり、自身の運命の主人である」などと言う。しかし、こうした言い方は同語反復ではない。それはある種の考え方や移りゆく変化が曖昧なものにしようと脅かす主語のある属性を強調している。それを正確に理解するためには、我々は常に「にもかかわらず」、「それでもやはり」、「もう一度考えてみると」などを付け足さなければならない。カントが「分析判断」*と呼ぶものと同語反復とを混同することは単なる間違いである。前者では、述語は主語の位置にありそうあらわされるAという概念内容の一部である。しかし、あらゆる種類のあらゆる判断においてはある総合が主張されている。カントの分析判断における総合は概念の領域内では効力がある。実際の主語はAの全体ではなく、述語で主張されている属性では<ない>Aの属性である。「あらゆる物体は延長である」において主張しようとされているのは、「物体」という主語の内部での延長と物体の何らかの他の性質とのつながりである。たとえ「延長」と「物体」が同義語であるとしても、同語反復からは遠く離れている。なんらかの両立不可能な想定に対しては、思い違いや不正確さのあらわれだとして、延長はそれでも延長なのだと主張することはあり得る。また、言葉の性質に関する主張をすることもあり得る。言葉こそ違っていても、「物体」と「延長」とは意味が同じなのだと言おうとするかもしれない。しかし、我々は故意に同語反復を繰り返そうとは決してしない。あらゆる判断は本質的に総合的である。

 

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*1:

*これは私が使う「分析」の意味とは違う。