トマス・ド・クインシー『自叙伝』7

 我々、この家の子供たちは、実際、非常に幸福な、よい影響を全面に受けることのできる社会的立場にあった。エイガーの祈り「我に貧困も富裕も与え賜うな」は我々に実現していた。我々のこの幸福は高すぎるものでも低すぎるものでもなかった。よい作法、自負心、簡潔な品位の範型を見ることができるほど高く、孤独の甘美さを味わえるほどには身分が低いのである。かなりの財産、健康のため、知的修養のため、優雅な楽しみのための特別な手段が十分にありながら、他方、その社会的な等級についてはなにも知らずにいた。なにかがないことでみすぼらしさに消沈することはないし、特権を熱望して忙しない思いをすることもなく、我々は恥をもつような理由もなかったし、誇りをもつような理由もなかった。こうした贅沢のなかにいたことは感謝しているが、我々はまたスパルタ的な簡単な食事にしつけられており、実際、召使いと同じ程度で生活していたのである。そして(マルクス・アウレリウス帝の範例の後)幼年期の幾つかの幸福について摂理に感謝しようとするなら、次の四つは特別な記念として記録しておく価値があるだろう。つまり、私は田園生活の孤独に生活していたこと、その孤独は英国のものであること、私の幼年期の感情は姉たちのこの上ない優しさによって形作られ、恐ろしく喧嘩早い兄たちによってではないこと。最後に私及び彼らは純粋で、神聖、壮大な教会の忠実にして情愛のある一員だったことである。


 私の人生の最も早い時期に、思い出すといつまでも痛みを感じる出来事が二つあり、両方とも私が二歳になる前のことだった。第一にお気に入りの乳母についての恐ろしいほど壮麗な驚くべき夢であり、これは私の夢想癖が生まれつきのものであって阿片によるものではないことを示していることで私には興味深い(1)。第二に、早春、クロッカスかなにかの花が再び咲き始めたときに感じられた深い悲哀の感情である。これは私には説明することができない。草木や花の毎年の復活は、私にはなにかより高い変化への記念或は示唆として、それゆえ死の観念に結びつくものとして感じられていた。しかし、その当時、私は死については何の経験もしていなかった。

 

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*1:1.当時、阿片安息香チンキが時々風邪を引いた子供に与えられていたことは本当である。この薬には阿片はさほど入っていなかった。そしてどんな薬も医者の許可なしに幼児に投与されることは決してなかった。私の場合と同じように阿片の投薬が習慣的に行われることがないのは確かである。というのも、私は二十一ヶ月そこそこであり、その歳では阿片の効果はあやふやで危険だからである。